前回、六年前に建てた御柱はいったいどうなるの?

七年目ごとに行われる諏訪大社の御柱祭。
4月の山出しに続き、5月には里曳きがあります。
里曳きのフィナーレはもちろん曳行してきた御柱を社殿の四隅に建てる建御柱。
新しい御柱が建てられるなら、それまでの御柱はどうなるのでしょう…。
答えからいうと倒されます。それを“御柱休め”といいます。

下社の御柱休めは建設業者などプロの方が担当。
しかし、上社では昔から諏訪市中洲中金子(なかがねこ)地区が担当しています。
それを“古御柱(ふるおんばしら)”と呼び中金子区民のお祭りになっています。
4月16・23・24日に行われた御柱休めの最終日におじゃましました。

まずお話を聞いたのは区長の矢崎宏規さん。
矢崎さんが聞いている話としては、400年ほど前から中金子が担当。
昔は70戸ほどの家しかなかったため、前宮の4本は宮川に落とし、中金子で引き上げるということもしていたそうです。

区長の矢崎宏規さんです

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本宮と前宮を合わせて8本、すべての御柱休めを担当する中金子。
16日は前宮の4本を倒しました。今は茅野市の地元へ渡されるとのこと。
23日は朝から本宮の4本を倒し、本宮一を氏神様の八立(はちりゅう)神社まで
曳行。夜の7時半までかかったそうです。隊員がおじゃました24日は、残りの3本を八立神社まで曳行しました。

朝9時頃から“綱渡りの神事”が始まります。

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はっぴ姿の氏子の中に明らかに変わった衣装の方がいました。
“露払い”というお役目の丸山和男さん。曳行の先頭を進みます。

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そして曳行の最後は、御柱ではおなじみとなっているお掃除部隊。

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この日の参加者は300人ほど。本宮二と三を、2班に別れて担当します。
ということは1本あたり150人。そこにはある工夫が…。
前方部の下に地車(ぢぐるま)と呼ばれる二輪の台車が取り付けられています。

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ふとみると本宮二の頭頂部にキノコが…、6年間の名残です。

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御柱休めを担当する、担当できるのは中金子だけですから区民の誇りとなっています。少しずつカタチを変えながら、伝統を守るこだわりも…。
たとえば…本宮一と二を倒すときはあくまでも手掘りにこだわります。
重機は使わず、時間がかかっても人の手で根元を掘る。本宮一を倒したあとの大きな穴。

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そんな区民の誇りを象徴する旗があります。歴代の諏訪大社の宮司に書いて
頂く中金子村の旗です。「区」ではなく「村」と書くところもこだわり。

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古御柱は区民のお祭りですから、女性や子ども、お年寄りも大勢参加します。
鋭角に曲がるなど、力が必要なポイントや危険な場所では若連が大活躍。

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上社の本宮から中金子の八立神社まで2キロほどの道のりを曳行。
午後1時過ぎに曳き付けを終わりました。
古御柱はこのあと八立神社の境内に安置。6月19日の神事を経て“普通の木”
に戻ります。前回は、1本が諏訪市の友好都市である長崎県の壱岐市に運ばれました。今回もその可能性が高いそうです。

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ご神木は折れた根元も掘り出して揃えます。 ↓
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中金子の皆さんの代表は里曳きでも重要な役目を担います。
建御柱の最後に行われる“穴埋めの神事”、翌日行われる“地固めの神事”の際、
白装束に身を固め、「中金子村」の旗を持った人が登場しますのでぜひ注目して
ください。
諏訪の調査隊員:土橋桂子

飯田市に赤門ができた理由が、いよいよ明らかになる〜!?

先週は、飯田には日本に3つしかない赤門のうちの一つがある
ということで、お送りしたんですが
以外とみなさん知らないようでしたね



赤門というのは
徳川家からお嫁さんを迎える時にのみ、赤く塗ることを許された門で
焼失などした時は、そのお姫様だけのものなので、
建て直してはいけないということで
東京の東大、飯田、そして鹿児島にのみ当時のままのものが残っている。

ではなぜ飯田に赤門ができたのか?

そこに来たら、真相は闇の中・・・

通説が全てウソ!
という意外な展開に、驚き!でした。

まず、赤門のルーツ 通説になっている2つの説を改めてご紹介しましょう。

随分前から通説になっていたのが
1、徳川家のお姫様が飯田にお嫁に来たので赤門は作られたという説
   1600年代に飯田を治めていた小笠原秀政公の所にお嫁に来た
   徳川家康と織田信長の孫娘 福姫様の話
   
   でも、赤門が建てられたのは1750年頃
   その間には150年もの開きがあり、この説はかなり無理がある。

もう一つ、ここ何十年か通説になっているのが
2、堀の殿様が、幕府の側用人という高い位に着いたので、
         功績を認められて門を赤く塗っていいと許されたという説
  
  そもそもの赤門が作られる理由を考えると、この説も難しいものがある。

この二つが、あたかも真実のように語られ続けてきたわけですが、
それはどうしてだったのか?
まずは、その調査から、始めることにしました。

そこには先人たちの様々な思いが渦巻いていました

お話は、飯田の歴史にお詳しい
飯田市美術博物館の歴史の評議員で、橋南公民館の今村光利さん。

まずは、ひとつ目の、年代的にも150年も開きがある出来事を、なぜ結びつけてしまったのか?
それは、昔からの話ではないようなんです

その説が言われ始めたのは、戦後の話。
ではなぜ、戦後その説が生まれたか?

それは、飯田が小笠原家ゆかりの地、
小笠原という名前を挙げればみんながわかるというのが一つ
ちょうど赤門が注目されている時代に
飯田市伊豆木に小笠原書院が保存され
戦後の復興の中、日本人の心を取り戻そうと
それまで秘伝だった小笠原礼法や小笠原流茶道などが
一般解禁されたこともあって
何でもかんでも小笠原に結びつける風潮があった。

という事なんです。

赤門というものの貴重さと、小笠原家の格式や知名度がうまくマッチしたのと
実際に、徳川家からお嫁さんに来ているという事実
この赤門というものの価値を上げるためにも
それがいいと判断した先人がいたんですね。

ではどうして、赤門が飯田に作られたのか?

お嫁入りの時しか赤く塗るのは許されていない赤門
実は、実際に、この赤門は、あるお姫さまのお輿入れのために作られたそうなんです

赤門は、徳川家からのお輿入れの他に
作っていい条件がもう1つあったんです。
それは・・・

3位の徳川家だけでなく、
4位の位の家からのお輿入れの際にも、門を赤く塗っていいという決まり。
一般の大名が5位という位だったので
特別に位の高い、天皇に拝聴できるくらいの家柄にも許されていたわけです。

そのお姫様というのが
堀親長というお殿様の所にお嫁に来た
犬公方で有名な徳川綱吉のお側用人だった、よくテレビのドラマなどで悪役として出てくる
悪名高い柳沢吉保の孫娘。

柳沢家というのは側用人というかなり高いくらいの家柄、4位の位でした。

という事で、赤門が作っていいお輿入れだったんですね~

だったら、そのまま伝えればいいじゃん
と思うでしょ!

でも、ここで、もう一つの説
堀家の堀親蕃(ちかしげ)、先ほどの徳川のお嫁さんをもらった殿様の息子さんに当たるんですが、
その親蕃が幕府の側用人を務めていたから門を赤く塗ることを許されたという説が登場することになります。

それはなぜ?
本当の理由が表に出せない理由があったんです。

それは、堀親長というお殿様は、とても行いの悪いお殿様だった。
様々なお膳立てを家臣の人たちがして、出世に繋がる縁組を決めたにもかかわらず
お手付きのお女中さんに手を出したり、飢饉の時にあまりいい行いをしなかったりして
柳田という筆頭老中が、自害をしてまで、殿様をいさめようとした。

そんなお殿様の一連の流れを、あまり表に出したくなかったという思いが綿々とつながっていたというのです。

不都合な歴史
というものが存在し、それを隠すために
いろんな形で、都合のいい歴史に変えられていったなんて言っていいのかわかりませんが、そんな感じだったんですね。

ウソなんて言葉が悪くていけませんが
この赤門を愛するがゆえに
日本に3つしかない赤門を
それにふさわしい形で残していきたいという思いで
考え抜いた一つの知恵と思えば
この赤門が、いかに飯田の人たちに愛され続けてきたのかがわかりますね。



今日は、飯田の赤門に隠された、新事実の調査結果の報告でした。

こうして公の前に出るのは、はじめてなのかもしれません。
これがこれからの通説になっていくのも、そう遠い話ではなさそうですね。



   新事実に興奮を隠せない 西村容子 でした♡

桜の木を使ったアレがひそかに話題。松本の工房で作られているらしい。

アレは、家具ではありません。
建具でもないです。食器でもない。

これです!!

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アコースティック・ギター。

裏と横の板に桜の木を使い、

ネックには桜の花びらを形どった貝が埋め込まれ、

ピックガードも花びらの形に。

うっとりするようなこの美しさ!

これは、松本市笹賀の株式会社ディバイザーが販売している、

ヘッドウェイというブランドのギターです。

 

アコースティック・ギターに使われる木材は、ローズウッドやマホガニーがほとんど。

それ以外の木は、いい音が出ないなどの理由から敬遠されることが多いとか。

で、なぜ桜の木?

ディバイザーの相澤 森さんに、詳しいお話をうかがいました。

 

「長野県の桜の木を使ってみませんか?

という提案が木材屋さんからあったんです。

それで試してみたところ、

桜の木を使ったギターは音のバランスがとても良かった。

とても気持ち良く響く音が出たんですね。」

 

やはり、日本人は桜というとテンションあがりますよね?

そして見た目もこんなに美しい。

 

「初心者の方にも使いやすいギターなんですよね。

桜の木を使い、装飾も桜をモチーフに美しく仕上げてあるので、

これから始めてみよう、というきっかけになったらいいな、

という想いがあります。」

 

ディバイザーは、もともとは

アコースティック・ギターの製作から始まった会社なのですが、

現在はエレクトリック・ギター、ベースの製作が中心です。

 

「長野県は実は、ギターの生産がとても盛んなんです。

平成24年には出荷額が全国一位。

やはり、気候が合っているんでしょうね。

特に松本は、かつて家具の生産が盛んだったので、

家具職人さんたちがその技術をギター製作に活かしているんです。」

 

工房を見せてもらいました。

 

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この方。ギターを作って50年。

卓越した技能を持ち、その分野で県下第一人者と目される人を、

長野県知事が表彰する、「信州の名工」に選ばれた方なんです!!

この工房で作られているギターは、国産の最高峰、とも言われているものだそうですが、

それもそのはず。

こうした名匠がいて、後輩たちをしっかり指導しながら、自らの技を磨き続けて、

ギター製作に情熱を注いでいるんです。

工房には、全国各地から職人さんたちが集まっているそうです。

私がお話を聞いた方も、

「ギターが大好きなんです。こうしてギターに触っている時間が一番幸せ。

大好きなギターだから、ひとつひとつ心を込めて作りますし、

出来上がっていい音を出した時は、本当に幸せを感じます。」

と話してくれました。

 

工房を見て、職人さんたちの想いを聞いて、

改めてこの桜の木のギターを触ってみると、

なんだかとっても優しいぬくもりを感じます。

 

興味のある方、ぜひ、触ってみてください!

 

ディバイザーのホームページも、のぞいてみてね。

こちらです。http://www.deviser.co.jp/

松本の調査隊員:塚原 正子

☆山ノ内町のカレンダーは変わっているって本当?

山ノ内町には、ちょっと変わったカレンダーがあるらしい。
変わっているのは??デザイン??形・写真や絵??
想像が膨らみますが・・・。山ノ内町のカレンダー作ったのは、
山ノ内町のお母さん達・JA志賀高原女性部の皆さん。どんな??カレンダーなのか?
まず・・・。ヒントをもらってきました。

構想から2年。時間と手間をかけたカレンダー。
山ノ内町の魅力がギュッと詰まったカレンダー。

どんなカレンダーなのか?ヒントもらいましたが、まだまだ謎が多い。
お話は、JA志賀高原女性部のメンバーからカレンダープロジェクト発起人の池田元子さんです。

となりのおばちゃんには聞けるかもしれないけど・・・。ちょっとお義母さんに
今更聞きにくいこと等が書かれている。たとえば・・・。
年間の行事。風習。季節の料理レシピ。郷土食。なんと!方言まで。
そして、曜日が書きこまれていない。
これによって、万年カレンダーとして利用できる。
日記のように、また我が家の歴史書としても使ってほしい。
そんな願いがこもったカレンダー
その名も「おらほのくらし」カレンダーです。
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なんといっても、目をひくのは、季節のお料理。重点的に盛り込まれています。
このお料理について・・・。メンバーの望月美和子さんにお話しいただきました。
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お料理・郷土食はその家その家。味もあるし作り方も様々。
望月さんのように長野市からお嫁さんに来ると1から覚えることも多々。

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今では、もうどっぷり山ノ内町民ですが。最初は苦労もあった。
基本となるレシピがカレンダーのように目にとまることの多い所に

しっかり書かれていたら便利ですよね。それにこれでで手作りの郷土食を作る人も
増えたら素敵ですよね。カレンダーの表紙。カレンダー名にもありますが・・・。
「おらほ」方言。カレンダーに載っている方言について。
県外からお嫁に来た小嶋恭子さんに方言を載せるにあたって、お話聞きました。
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県外から来たかたにすると山ノ内にはわからない方言だらけ
なので!このカレンダーを実家のお母さんにも送ってあげた。
これで!方言覚えてもらって、よりコミュニケーションが
図れるようになればとおもっているそうです。
また、池田さんは、山ノ内町生まれ。
息子さんのお嫁さんに話していると方言で伝わらないこともあり、
息子さんに通訳してもらうことも。だからこそ、
若い方にこそこのカレンダーで色々な山ノ内の事を知ってもらいたい。
カレンダーを利用してほしいそうです。
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山ノ内町のカレンダーは、山ノ内のお母さんの知恵と愛がこもった
素敵なカレンダーでした。

調査員 竹井純子

4/25噂・日本最古の天体望遠鏡が上田市立博物館にある!?あのプラネットナインは見えるの?

今を遡ること約400年も昔、
オランダの眼鏡屋ハンス・リッペルスハイは、
自身が眼鏡師という職業柄、様々なレンズを取り扱っていましたが、
たまたま二枚のレンズを組み合わせると
遠くにあるものが近くに引き寄せられて見えることに気付きました。
望遠鏡の発明です。
その翌年イタリアのガリレオ・ガリレイが
その望遠鏡を初めて天体に向けました。
「ガリレオ式」と呼ばれる天体望遠鏡の誕生です。
そして日本ではどうなんでしょう。
私はある日、上田市立博物館に展示物を見に行き、
館長の倉澤正幸さんに色々なお話しを聞きました。

ここにはどんな物が飾ってあるの?
倉澤館長
「はい、ここには歴代上田城主、真田・仙石・松平氏の
貴重な甲冑や具足、史料などが飾ってありますが
日本最古の天体反射望遠鏡も飾ってあります。」

目の前には日本最古の反射式天体望遠鏡がデデーンとありました。

(写真はすべて館長の許可を得て撮影しています)

これは誰が作った?
倉澤館長
「天保5年(1834)、近江の国(滋賀県)の鉄砲鍛冶だった国友藤兵衛・一貫斎が作りました。
彼は発明家でもあり、弟子には東芝電気の創業者でもある、
からくり儀右衛門といわれた田中久重などもおります。」

この望遠鏡はどれぐらい貴重なものなのでしょうか?
倉澤館長
「国友が江戸時代、グレゴリーやニュートンが改良した
いわゆるグレゴリー式望遠鏡を見て独力で作ったもので、
国産最初の反射式天体望遠鏡であり、
現存4基残されている中でも最古の貴重な物です。」

でも滋賀県の国友が作った望遠鏡がなぜ上田市にある?
倉澤館長
「食いぶちに困った国友一貫斎が天保年間に諏訪の高島藩に買い上げてもらい、
その後、明治維新のころにに松本市の等々力氏の手に渡ったとのこと。
その後、13歳で上田に移住した息子が昭和12年に上田市に寄贈。
そんな数奇な運命をたどった望遠鏡なのです。」


そんな200年も前の反射望遠鏡が、現在でも使用に耐えるのは驚きです。

反射鏡も曇らず磨き込まれ、それほど精巧な技術で作られているそうです。
当時幕府からも「オランダ製のよりも遙かに鮮明で大きく見える」と評価されました。

国友は月や土星・木星を始め、
太陽黒点観察の貴重な資料も残しています。


上田市立博物館に飾ってあるこの日本最古の天体望遠鏡は
我々一般観覧者が天体を覗くことは出来ませんが、
貴重な物なのでぜひ行って実際に実物をご覧下さい。
真鍮製の独特の光を放つ望遠鏡を目の前にすると、
江戸時代の発明家の心意気がビンビン伝わりますよ。

さて、太陽系の9番目の惑星と言われていた「冥王星」は
2006年に新たに定められた惑星基準を満たさないとして、
準惑星に分類されることとなり格下げ。
それ以来、太陽系には惑星が8つしか存在しないものと考えられてきました。
しかし、今年1月、太陽系の最外縁部に未知の巨大惑星が発見され
「Planet Nine(プラネット・ナイン)」と呼ばれています。
国友の作った望遠鏡では、このプラネットナインは見えませんが、
日本の誇る「すばる望遠鏡」などでは唯一見えると言われています。
日本の望遠鏡技術は世界最高水準。
そんな素晴らしい技術のルーツは国友藤兵衛・一貫斎にあったのですね。

宇宙にはまだまだ分からないことがいっぱいあります。
今見える星は何万年も前の星の光です。
古代の人たちも同じ星を見上げていたかも知れません。
一寸望遠鏡を覗いてみませんか?

星はあなたを待っている!
 

  うすだスタードームの星空案内人、坪根さんの言葉が今も耳に残る・根本豊でした

岡谷市には八重桜の名所があるってホント?

その八重桜を楽しめる場所は岡谷市の街中、塚間川のほとりです。
岡谷市役所とカノラホールの間を流れるのが塚間川ですが、
下流に向かって100本ほどの八重桜が植えられています。

どうしてこの街中にこれほど素晴らしい八重桜があるのかずっと気になっていたので、調査してきました。
お話をしてくれたのは、元岡谷市長の林泰章さんです。↓

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かつての塚間川は雨が降るたびに溢れ出す川だったそうです。
そこで川の改修事業を行うことになりますが、併せて進められたのが岡谷市役所の新庁舎とカノラホールの建設。
特に川の改修に関しては、用地の買収など住民の皆さんにたいへんな負担を
かけたそうです。せっかく川幅を広げ、道路を広げ、歩道もゆったりと確保したので、街路樹を植えようということになり、八重桜が植えられました。

では、なぜ八重桜だったのでしょう。
イメージは海外視察で訪れたカナダのバンクーバーの街路樹。
街がピンクに染まりたいへん見事だそうです。
職員の中から『街の中心部にはあまり花の名所がない!』という声も上がり、
横河川のソメイヨシノと、鶴峰公園のツツジの間に花が咲くからと、八重桜が
選ばれました。鮮やかなピンクの花の中に一本だけ薄緑色の花を付ける木があるのは植木屋さんが間違えたから・・・。今ではこれもご愛嬌!!
↓ 昨年の満開時の写真です。

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この満開の八重桜を眺めながら『みんなが車で通過してしまうのはもったいないなぁ…』と考えた人たちが、あるイベントを始めます。
その名も「岡谷街歩き古本市 4/23~5/1」です。
今では年に二回の開催になり、この春は7回目を迎えます。
ちょっと内容をご紹介。 ↓ 詳しくは「岡谷まち歩き古本市」で検索してね。

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・岡谷路上観察部
・フリーペーパー博覧会
・弁士、ギター生演奏付 無声映画上映会
八重桜を植えた人たちの想いと、それを愛でる人たちの想いがいつまでも
引き継がれていくといいですね。

調査隊員:土橋桂子

飯田市には、日本に3つしかない赤いアレがあるらしい!?」

日本に3つしかない赤いアレってなだかわかります?

今回は、調べていくうちに、私が予想もしていなかった結論に発展。
今までで、一番面白くなってしまった調査でした。

今回の赤いアレは、1年中で今が一番楽しめる時なんです
期間限定、今月の24日まで、特に楽しめるんですが・・・

この時期は特別ということで、多くの人が訪れているので
そこを訪れた人たちに、話を聞いてみると・・・

「この時期しか開いていないから、この期間はいつも通っています」
とか
「ちょっと新鮮な気分ですね~」
「殿様の気分が味わえますね~」
えっ?
「この時期だけは、東大生の気分で通るんです」
えっ?えっ?えっ?

もう、何となくわかりました?
「赤いアレ」って・・・

そうです
「赤門」
東大って聞いた時点で、わかった方多かったでしょうね

飯田には、昔の飯田城の入り口近く
今の飯田合同庁舎と飯田図書館の間に「赤門」
「桜丸御門」という門が当時のままに残されています。



赤門というと東大というイメージが強いと思いますが
その赤門と同じ意味で建てられた赤門が飯田にある。
しかも、日本に3つしかないと聞くとちょっと驚きますよね〜

さっそく、この赤門を管轄している下伊那地方事務所に話を聞こうと問い合わせたところ
この日本に3つという事実も
「そうなんですか?聞いたことありませんが・・・
他にもいくつもあると思いますが」
と言う答え。

飯田で生まれ育った私は、それは常識と思って育ってきましたが
改めて、インターネットで「赤門」と調べてみると
確かに「赤門」と呼ばれる門は、お寺の山門や他にもいくつか存在するんです。

まずは、この

日本に3つは本当なのか?

という疑問から解決していくことになりました。

飯田の歴史にお詳しい
飯田市美術博物館の歴史の評議員で、橋南公民館の今村光利さんに伺ってみると・・・

それは
本当でした!!!

お寺などにある赤門は、全国に沢山ありますが
お城に作られた赤門で、現存する赤門は
東大の赤門飯田の赤門、あと鹿児島の唐門と呼ばれている赤門
の3つしかないそうなんです。



ではなぜ、3つしかないのか?

それは
焼失などした場合
作り直してはいけない
決まりになっていたからなんです。

ではなぜ、作り直してはいけなかったのでしょうか?
それは、赤門が作られる理由に大きく関係していました。

赤門というのは、
徳川家からお嫁さんをもらう時に作ることが許された門
そのお姫様だけのために
お嫁入りする時に通ることを目的に作られた門なので
もし、焼失などした時は
作り直してはいけないということなんです。

当然、何代も続いた徳川家からお嫁入りしたお姫様は大勢いたはず
しかし、時代の流れの中で
なくなっていった赤門が多かったという事になります。

実は、今の慶応大学は元薩摩藩のお屋敷があったところで
そこには当時一番立派だと言われた赤門があったそうなんです。
しかし、幕末の流れの中で、焼き払われ、
東大の赤門だけが、残された形となっているそうです。

そんな形で次々となくなっていった中、
3つだけが大事に守られてきたということなんですね。

では、そんな赤門が、
どうして飯田城に作られたのでしょうか?

実は、これがハッキリしないのです。

管轄である下伊那地方事務所に聞き、飯田市に聞き
長野県立歴史館まで、聞きましたがハッキリした答えは出てきません。

しかし、そんな中で、2つの説が浮上してきました。

まず一つ目は、私が赤門の存在を知った時から、聞いていた説

東大と同じように、飯田城にも徳川からお姫様が輿入れしてきてその時作られた。

というもの。
飯田に住む多くの人がこの噂を聞いたことがあるはず。

そして、そのお姫様のお墓が、実際に飯田の街中にある、峯高寺というお寺にある
ということで、そのお寺を訪ねてみることにしました。

ご住職様の篠田知並さんに、この赤門との関係を伺ってみると・・・

 そういう話は、実際よく聞かれるんです。
 でも、実はそれは事実ではないんですね~

と・・・

このお寺には、本当に徳川家からお嫁に来たお姫様のお墓があります

これがそう!





お墓の正面には、菊の御紋も・・・



実はこのお姫様、すごい家柄のお姫様なんです。
なんと!!!
歴史に名だたる徳川家康と織田信長の孫娘
しかも、家康の一番最初に生まれた孫で
不幸にも両親を早くに亡くした後、
家康が自分の娘として育て、家康の寵愛を一身に受けたお姫様だったんです。

そんなお姫様が、こんな田舎にお嫁入りしていたなんて、
それだけでもビックリなんですが、
そのお姫様が飯田にいたのが1600年代
赤門が作られたのが1700年代
年代的に見れば一目瞭然、全く関係ないことがわかります。


では、なぜ日本でも貴重な「赤門」が飯田にあるのか?

市役所の文化財を管轄している部署に問い合わせると
とても若い職員の方が、周りの先輩方に聞きながら
とても丁寧に答えてくれた説がもう一つありました。

それは、この赤門、堀家が城主を務めていた時代に建設されているということで
10代目にあたる堀親蕃(ちかしげ)という殿様が、徳川幕府の側用人、老中という
高い位の要職を務めていたために、
その功績が認められて、門を赤く塗ることを許された。

というもの、この説は、私が調査していく中でも何度か耳にしたものでした。

でも赤門は、徳川からお輿入れをするお姫様のために作られるはず
何かの功績のために作られることがあるんだろうか?
という疑問もわいてくる。

そこで、今村さんに確認してみると・・・

「功績が認められて、赤門が作られることはありません」

とバッサリ・・・

そうすると
飯田で語られている史実は全てウソということになってしまいました。

では真実はどこにあるのか?

実は、そこには先人たちの様々な思いが渦巻いていました。

その真相は、来週お届けします。

          

   この赤門に隠された真実に、歴史の面白さを感じてしまった 西村容子 でした☆

             







YOUたちが喜ぶレストランが、松本にオープンしたらしい

YOUたちは、例えばこんな方たち。

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喜んでるでしょ?

この方、インドネシアから来た方。

「うっごくうれしいよ。

ここは松本で初めての、ハラル料理を出してくれるレストランだから。」

っておっしゃっていました。

 

ハラル料理?

 

写真の左、注文を聞いている方、

キルギス共和国から来た留学生のウランさんに、

聞いてみました。

 

「ハラル料理っていうのは、イスラムの教えにのっとって、

お祈りをささげて特別な作法をを施したお肉を使っている料理です。

今まで松本にはなかったんです。

だから僕たちイスラム教徒は、

レストランでお肉の料理が食べられなかったんです。

ここができたことは、僕たちにとって本当に、とっても嬉しいことなんです。」

 

店長さんは、松本留学生応援ファミリーの会の会長として、

永年留学生のお世話をしてきた、藤本 正二さん。

「イスラム教徒の留学生や観光客が、

ハラル料理のお店がなくて困っている、

ということは、留学生たちと接する中でとても身近に感じていました。

だったら、イスラム教徒だけでなく、

どなたでも楽しめるようなお店をつくろう!

と思ったんです。

いろんな国、いろんな文化を、食を通じて知ることは、理解が深まる近道だし、

食べ物を通じて交流が深まるんじゃないかと思うんです。」

 

そんな想いから、お店をオープンさせたんですね。

店内には、ロシアや中央アジアの写真を飾り、

生活や風景、文化を紹介していく工夫も。

写真を観るだけでも、楽しいですよ!!

で、気になるメニュー。

看板には、ロシア・中央アジア料理って書いてあるんです。

いったいどんなものを食べさせてくれるんでしょう?

 

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これはランチメニュー。

ボルシチ、ハンバーグ、チキン、ロールキャベツ。

パンケーキとピロシキ、ロシア紅茶がついています。

なじみのあるお料理ですよね。

でもこれ、中央アジアやロシアの料理なんですって!

夜のメニューには、見たことのないような名前のお料理も。

 

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どれもとっても美味しそう!

ひとつひとつ、制覇してみたくなりますね。

お肉料理はもちろんハラル料理になっていますけど、

私たちも食べられますし、味はそれほど違いは内容です。

 

「人によって好みがあると思いますので、

いろいろ選んで、好きなものを見つけてください。

たぶん、いろんな国の人たちがここに来てくれると思います。

無国籍な雰囲気になるんじゃないかな。

地元の方も、観光で来た方も、ぜひお気軽に立ち寄っていただいて、

交流の場にしてもらえたら、とても嬉しいです。」

と藤本さん。

楽しいお店になりそうですよね!

 

レストラン アセリャ

松本市深志2丁目6-1

電話 0263-88-3939

定休日は火曜日

☆中野から一度は食べてみたい!アッと驚くスイーツが誕生

お二人にも・・・。まずは、食べて頂きましたスイーツ。
何が驚きなのか?解りましたか?何が使われているスイーツなのか?
なんとなくわかってきたところで!私は驚きのあるものを使った、
アイスクリームを食べてみました。

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なんとえのき。私の食べたアイスにはえのきたけ・・・。ということで!

きのこを使ったお菓子。スイーツがこの度誕生したそうです。

お話して頂いたのは、信州中野きのこお菓子プロジェクト会議座長で
日本きのこマイスター協会理事長の前沢憲雄(のりお)さん。

信州中野きのこのお菓子プロジェクト昨年5月から動き出して。
このお菓子プロジェクト構成は、JA中野市・中野市・信州中野商工会議所
管理栄養士・弁理士の皆皆さん。きのこと言えば!
きのこを使ったお料理は色々皆さんに募集してコンテストをしたりと、
あったのですが、今回はスイーツ。
今まで全くなかったわけではないのですがまだまだ少なかった。
きのことスイーツのコラボ。ちょっと難しそうにも思うのですが・・・。
なぜ??きのこをスイーツにしてみよう。なんで?スイーツだったのか?聞いてみました。

冬のお鍋の定番。欠かすことが出来ない食材。でも1年を通して食べてもらうのが難しい。
また、若いかたのキノコ離れも・・・。課題。
特に若い女性に召し上がっていただくには??スイーツ。
ですから、今回のキノコスイーツ中野市内の9店舗のお菓子屋さん。
和洋ともにお茶屋さんもあったりと。加工所のお母さんたちの力も借りたり。
味はもちろん。見た目の可愛いものとオリジナルのロゴを考えたり。

IMG_1887
きのこ型の型を作ったり。したそうです。

きのこでスイーツを可能にしたのには・・・。
粉末・乾燥のキノコ。えのき氷が誕生したことが大きかったそうです。

乾燥・粉末・きのこ氷。これによってきのこの世界が広がりました。
今回のスイーツこれらのキノコ入る。入れる量のきちんと定まっているそうです。
乾燥・粉末きのこは3%以上。えのき氷は5%以上。
なんと!1つのマドレーヌにえのき氷一個分のえのきがぎゅっと詰まっています。
IMG_1888

スイーツですが、体への効果も期待できる??かもです。
罪悪感の無いスイーツいいですよね。

これらのキノコスイーツはすでに中野市内で販売が始まっています。
市内9店舗それぞれで店舗ごとのキノコスイーツお買い求めできます。
ですが!!なんと!!4月23日24日に長野市ビックハットにて
きのこのお祭りがあるそうです。
そこでも販売が決定しているそうなので!

一度食べてみたいきのこスイーツから
もう一度食べたいきのこスイーツになったらいいなあ。って思いました。
調査員 竹井純子

4/18噂・毎日、あさまサンラインを黙々と走っている外国人は誰?!

だいぶ前に、このうわさの調査隊で調査して欲しいことを、リスナーの皆さんに募りました。
すると先日、上田市のRNおやきマンさんからメールが入りました。
おやきマンさん、どんなうわさなんでしょうか。
「はい、私が住んでる上田市を通っている広域農道あさまサンラインを、
10年以上、毎日黙々と走っている外国人の男性がいるんです。
年の頃なら40歳前後でしょうか。
いつも見かけるたびに気になって気になって。」

というわけで、その気になる外国人の方を探し当て、調査してきました。

その外国人は来日29年目。カナダ出身のビル・レッティさん。
最初は上田の英語塾講師として来日。
日本に来てビックリしたことは、頻繁に交わされるお辞儀。
カナダ人としてすごく違和感があったそうです。
それと、給料が月一回しかなかったこと。
月2回が普通のカナダ人として、期待していた頃に出ないというのは大変困って
最初は借金生活をしたとこぼしていました。
さて、そんなよくあるカルチャーショックを受けた普通の外国の方が、
なぜ黙々と毎日走っているの?

このビル・レッティさん、元々母国カナダでは陸上中距離競技1500㍍、州代表で
カナダ全国大会出場の実力者だったこともあり、
上田に住んでる長野陸連の人に誘われて、
県縦断駅伝に上田東御小県チーム代表として1997年から12年連続出場していたんですって。
実は、あさまサンラインを黙々と走っていた外国人は、
長野の駅伝界では大変有名な方だったのです。






さて現役引退したビルさんはその後どうしたのでしょう?
こんな実力者を地元はほうっておくはずがありません。
現役引退後即、チーム監督の依頼を受けました。
満を持して監督の任を引き受け、万年Bクラスが定位置のチームを率い
なんと初年度から優勝。
「優勝できるわけがない」と言われ続けていたチームを
「負けるわけがない」と言わしめるまで成長させました。
監督就任4年間で優勝2回準優勝1回、3位一回と素晴らしい成績を残し
2012年、2回目の優勝を置き土産に監督引退。


新たな指導者にも機会を与えるため、
又ボランティアで監督を続けていたこともあり、
生活を立て直す必要もあって引退しましたが、
上田市民らの熱い要望に応え、今年4年ぶりに監督復帰。

今年の県縦断駅伝にかける思いを伺うと、
久しぶりに復帰ということで、謙虚に3位ねらいと言うことですが、(昨年5位)
虎視眈々と優勝をねらっていると思います。

ビルさんのもう一つの趣味は着物。
着物着付けの世界大会が日本であるというのは初耳だったのですが、
正式名称「全日本きもの装いコンテスト」は、1972年(昭和47年)に
第一回が東京帝国劇場にて開催されて以来、(現在は東京NHKホール)
40年以上にわたり続いている日本有数の権威あるきものコンテストだそうです。
駅伝の監督を辞めている間、その大会に出場して外国人の部4位入賞。
男女混合での4位なので男性では1位。
でも表彰台に上がれなかったのが今でも悔しいと言ってましたから、
相当の負けず嫌いのようです。

さて今年も11/19~11/20にかけて長野県縦断駅伝競走が開催されます。
長野市から飯田市まで22区間217.5㌔。
「県内を縦断する駅伝」というのは国内でも珍しい大会。
長野県晩秋の風物詩として、SBCラジオでも毎年実況中継をしています。
ビルさんは最後におっしゃってました。
「駅伝は日本にしかない競技で、1本のタスキがチームをつなぐ、
素晴らしい壮大な競技です。
ぜひ世界に広めたい。オリンピック競技になればいいと心から思っています。」
と熱く語っていました。
県縦断駅伝、皆さんの地元の活躍とともに、
ビルさん率いる上田東御小県チームにもご注目下さい!
  
    日課のウォーキングをそろそろ、走りに変えるか(ウソウソ)・根本豊でした

情報わんさかGO!GO!ワイド らじ★カン 番組へメール radiko SBCラジオ

日替わり調査員

月曜日 根本 豊 東信担当

寺山修司の演劇実験室「天井桟敷」に所属していた演劇人。
福島出身で標準アクセントがいまだに身につかない。無類の酒好き。

火曜日 竹井 純子 北信担当

SBCのラジオカーレポーターを経て、調査隊員に。
中野市出身、豪快な笑い方が特徴。愛用の手提げバッグのデザインが下品と評判。

水曜日 塚原 正子 中信担当

ロック好き。電話するとだいたいエレベーターに乗っている。謎多き女性。
松本市出身。中学・高校のあだ名は「かっぺ」。

木曜日 西村 容子 南信担当

元民放テレビ局のアナウンサー。3人の子どもを育てながら、おもしろいネタがないかとアンテナを張りめぐらしている。への字まゆげがチャームポイント。飯田市出身。

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