近代登山の父 ウォルター・ウェストンの愛が、100年の時を経てよみがえった?

まずは、ウォルター・ウェストンってだれ?! というお話から。

ウォルター・ウェストンは、イギリス人宣教師です。

教会団体からの派遣で、初めて日本に来たのが、今から128年前、明治21年(1888年)。

以来3回日本を訪れ、何度となく北アルプスに登っています。

当時、登山という文化がなかった日本人に、山に登ることの魅力を伝え、

近代登山の父と呼ばれているんです。

上高地に、レリーフがありますよね。

 

そのウォルター・ウェストンの愛がよみがえった、ってどういうことでしょう?

 

実はウェストン、こういうものを残しているんです。

 

IMG_3203

 

左側の赤い皮の本。

これは日記帳です。

大正4年(1914年)の夏、

生涯で最後となった北アルプス登山のために宿泊した温泉宿「上高地 温泉場」に、

この日記帳を残したんです。

表紙刻まれた文字は

「KAMIKOCHI ONSENBA CLIMBER'S BOOK」(上高地温泉場クライマーズブック)

この素晴らしい北アルプスには今後、多くの外国人登山者が訪れるだろう。

彼らの登山の参考になるように、

自分が体験したルートや時間、天候などを記録として残し、

さらに宿泊した人に自分たちの体験を記してもらうようにしよう。

そんな想いで残していった日記帳。

後にここを訪れた外国人登山者が、次々に書き継いでいき、

1972年までの間、80人余りの人々の記録が記入されていきました。

 

これをどうしたか。

松本市山岳観光課 課長 加藤 市朗さんにうかがいまいた。

 

IMG_3204

 

「この中には大変貴重な記録が残されています。

しかも、外国人の視線で書かれている。

北アルプスに寄せるウェストンの想い、

さらには山を愛する外国人登山者の気持ちが詰まっているんです。

これはやはり、後世に引き継いでいくべきものではないか、ということで、

松本市が主体となって、日本山岳会などからも協力を得てこの日記を翻訳し、

記念すべき第1回目の山の日、8月11日に出版しました。」

 

IMG_3207

 

貴重な資料となる記録がたくさん書かれています。

例えば、アメリカ人のメルル・デイヴィスという人が書いた焼岳噴火の記録。

 

『・・・噴煙は一部が朝霧でかき消されたものの、その大半は空高く立ち上り、

巨大な傘のように広がると、南西の風に乗り、すばやく谷をのぼっていった。

その結果、朝の日差しは夜の帳(とばり)に変わり、淡いスレート色の灰が

これでもかと降り注いだ。・・・』

 

これ、ほんの一部ですが、読み進めていくとその様子が鮮やかに浮かんできます。

どの方の記録も、文章が素晴らしく、読み応えがあります。

山の様子だけでなく、一緒に行った日本人とのやりとりを、

愛情たっぷりに描いています。

中には、自分の目の前に広がる景色、山の素晴らしさを、

詩で表現している人もいます。

この中に、ウェストンと80人の外国人の、

山への想いがぎっしりと詰め込まれている。愛を感じるんです。

 

「確かにそうだと思います。

そして彼らが愛した美しい山々は、今もここにある。

彼らの想いとともに、後世に引き継いでいきたい大切なものだと思います。

山が好きな人はもちろんですが、そうでない人も、

ぜひ読んでいただきたいです。」

 

松本市博物館では9月4日まで、企画展が開催されています。

この本物の日記帳のほか、大正時代に画かれた登山ルートを記した地図や、

河童橋の上で撮影したウェストンの写真など、貴重な資料が展示されています。

 

IMG_3202

 

そして、8月11日に出版されたこの本

「ウェストンが残した クライマーズ・ブック

外国人たちの日本アルプス登山手記」

は、長野県内の書店で販売されています。

 

まさに、ウェストンの愛が、100年の時を経て、

この本の中に、美しくよみがえっています。

いろ~んな発見と感動が詰まった、愛の本なんですね。

 

松本の調査隊員 塚原 正子でした。

 

 

 

長野市にもカッパ村があるらしい?

長野県で!カッパ村というと!長野県駒ケ根市が大変有名ですが!なんと!
長野市にも、カッパ村があるらしい?という噂を聞き。調査開始。本当に?カッパ村はあるのでしょうか?

善光寺参道近く・・・。長野市東町に!
IMG_1917

緑色が目にとまり・・・。
IMG_1918

あ!!!カッパ!

IMG_1913

カッパの絵がずらりと並ぶ場所を発見。

IMG_1916

この場所が本当にカッパ村なのか?
恐る恐る!!中にお邪魔してみました。

噂は・・。本当。

カッパ村!でした。正式には、河童連邦共和国。
登録・入国が認められているのが、村長さん宮本さんのギャラリー。宮本さんはこの2坪の場所で、カッパの絵を書いている。
つまりギャラリー兼お仕事場。アトリエです。宮本さんは、皆さんからカッパさんの愛称で呼ばれる。画家さんです。

IMG_1911

この河童連邦共和国大統領府は東京。台東区浅草にあるそうです。
村民が2人以上でカッパ村として認定。それが!長野県の駒ケ根市のカッパ村ですね。
宮本さんは、村民がたった1人。このような場所は、まとめて!水辺カッパ村として登録されているそうです。

IMG_1915

水辺カッパ村は取材当時。55名
駒ケ根のような村は、41ケ村。あるそうです。H25年度時点で国民は438名年々減少傾向ではあるようですが!
宮本さんのようにおひとりでも入国できるので!全国各地に広がっているそうです。
宮本さんが国民。入国できたのはこんな理由からでした。

宮本さんがカッパと出会ったのは1冊の画集。絵本作家の斉藤博之さんの作品
「河童曼荼羅」(かっぱまんだら)。カッパを擬人化して人の持つ喜怒哀楽を表現したものですが、
この絵と世界観にすっかり魅了されたそうです。ここから宮本さんなりのカッパの絵を描き始め25年。
宮本さん元々は手書きの看板のお仕事をされていて50年。筆を持たないことがないほど。
今は大好きなカッパの絵をかきアトリエで過ごす時間がほとんど。個展なども開いていらっしゃる。
アトリエを2013年から開くようになって。絵を描いていると様々な方が訪れてくれてカッパのお話しする時間が楽しいそうです
。さらに多くの方に訪れていただくきっかけにこの河童連邦共和国への入国があったようです。
宮本さんがみなさんに見ていただきたいと思うカッパの魅力についても聞いてみました。

河童には!妖怪としてのちょっと怖いなって思う部分とちょっとユーモラスな部分。
IMG_1910
また、人に似ている部分色々あるのが魅力ではないか?それを宮本さんなりに表現し描いているので。
IMG_1907
ちょっと怖いカッパや楽しいカッパ美しいカッパ様々なカッパがたくさんいるのが!宮本さんのカッパ村なんです。
ここに来るとみんなカッパが好きになっちゃうかも。
そうなると!カッパに会ってみたくなってくる。カッパを描く宮本さんにこんな質問してみました。
「今の世に、河童は存在すると思いますか?」

昔はもしかしたらいたのかもしれない・・。
水の中に泳ぐ何かを見間違えたのかもしれない。
でも、今の世の中では、河童は生きずらい。
だから!!今は河童はいなのかな?
IMG_1908


東北には、カッパ伝説目撃談多いそうですね。
長野市は中々なく。少ないそうですが・・・。
カッパ村があると知っていただくことでカッパが戻ってきてくれるかしら?

調査員  竹井純子

信濃町はどうして?トウモロコシの町になった?

夏の信濃町といえば!トウモロコシ!最高の甘みとあのプチプチ感。県内外からこの信濃町のトウモロコシを求め訪れます。
では?なぜ?信濃町はトウモロコシの町となったのか?調査しに!早速、信濃町に行ってみました。

調査に協力してくださったのは!信州信濃町観光協会 鮎澤貴(あいざわたかし)さんです。


鮎澤さん自身も今回の調査で!新しい発見ができたそうですが!今回は!試食あるかも??



みなさんは?もうこの夏、何度か?トウモロコシは食べましたか?子供たちは特に!大好きですよね。
ゆでても良し。焼いても良しのトウモロコシ。本当においしい。大きな産地としては!
やはり北海道が大変有名ですが!長野県も第3位の作地面積を誇ります。
特に!北信。信濃町は、トウモロコシ大変有名。トウモロコシ街道がこの時期には登場しまして大勢のお客さんで、大変混雑します。

IMG_2289

では??そんな信濃町。なぜ?トウモロコシの町になったのか?改めて。

信州信濃町 観光協会の鮎沢貴さんです。トウモロコシの栽培の歴史からおききしました。
信濃町では?いつから?トウモロコシの栽培が始まったのでしょうか?

飼料用のトウモロコシは大正時代から。そして!甘みがあり、粒の大きい食用のトウモロコシがなんと!アルフレットストーンさん。
1902年にカナダで生まれた方なんですが、農村伝道のために尽くした方。開拓伝道にも力を入れ。

様々なところで、宣教師としての傍ら農業の普及にも努めたそうです。

実際。信濃町の野尻湖湖畔には、記念碑も建てられています。

アルフレットストーンさんが広めたこの食用のトウモロコシですが、
こんなにも盛んに信濃町で作られるようになったのには、もう一つこんな理由もありました。

黒姫山の恵み。火山灰。この土壌に加え。周囲を北信五岳に囲まれ山から湧き出る清らかな水。
澄んだ空気。さらに気温差。寒暖差。一言に寒暖差といっても信濃町の寒暖差。
これは!半端なし。厳しさ故の宝物といってもいいかもしれません。この自然の恵みを生かし。
トウモロコシ以外にもブルーベリーやトマト・ピーマン・ナス・そば・お米などなどもおいしく育つそうです。

こうして!信濃町は、トウモロコシの町へとなってきたわけですが。
信濃町のトウモロコシが全国的に有名になったのに大きな力として!そうです。
トウモロコシ街道が大きな役割を占めていると思います。このトウモロコシ街道についても聞いてみました。
IMG_2292


信濃町のトウモロコシが好きすぎて、夏だけ働きに来る方もいるぐらい。
トウモロコシ街道は、黒姫駅から戸隠へ向かう道沿い。
二ノ倉の交差点からずらりと直売のお店や実際にゆで・焼きトウモロコシを食べたりできるお店がピーク時では10件ほど立ち並びます。
お店もそうですが、トウモロコシ畑も一面広がり。まさに!トウモロコシ街道となります。このトウモロコシ街道。
7月末から、お盆のお休みの時はかなりの混雑。まったく動かないなんてこともあります。
IMG_2293

県内外から大勢の方が訪れます。トウモロコシの収穫時期に合わせてですので!
9月初旬までこの賑わいが続きます。今の主流の品種としては、ゴールドラッシュ。

IMG_2294
そのほかにも、ハニーショコラやピュアホワイト。注目集める恵みという品種もあるそうです。
この恵みは甘さが強く皮が柔らかく生でも食べられる。この甘みが強い品種こそが、信濃町の土壌に適しているということが分かり。
もともと甘いトウモロコシがさらに甘くなるそうです。そんなトウモロコシをおいしく召し上がっていただく秘訣も聞いてみました。



鮮度が命。買って来たらすぐにゆでるもしくは、レンジでチン。
それから保存ですが、ここは!ゆでたてが一番おいしい。早めに召し上がっていただくのが一番。
ですから・・。残念。今回は私。おいしくいただきすべて食べてしまいました。本当に甘くて!もーフルーツです。
1本なんて!ペロリ。アツアツ。これがいいね。かぶりつくと、プチっと汁が飛ぶくらいにみずみずしく。
最高でした。怒っています??仕方ない。鮮度が命ですから・・。
で最後にトウモロコシ街道のお店の中には、ゆで・焼きトウモロコシだけでなく、
最近かなり人気のトウモロコシメニューが登場しているそうです。

IMG_2291

IMG_2290


それが!話題の!とうもろこしスープなんと!
8月23日は・・・。根本さんの66才のお誕生日。
しぶしぶ・・。いえいえ。気持ちを込めて!!!
スタジオにトウモロコシのスープ。
美味しく召し上がっていただきました。

調査員 竹井純子

佐久市に60年の功績が認められJRから表彰を受けた男性がいるらしい!?

佐久市に60年の功績が認められてJRに表彰された方がいらっしゃるそうなんですよ!!
60年も続けてJRに表彰される事って…
一体どんな事!?

早速、その男性に会いに佐久市に行きました。

 

1473037716731  1473037688581

 

この見るからに優しそうな方が、その男性です!

新津 三郎さん。
御年90歳!!
趣味は…野菜作りなのだそうです。
今は、トマト、ナス、ネギ、お豆、…色々な物が畑でとれるのだそう。
新津さん、穫れた野菜を従兄弟に送ってあげるのが楽しみの一つとなっているそうです。

さて、そんな新津さんが続けている事とは…???

 

傘!

傘を置き続けているのだそうです!!

 

傘を置き続けているとは…
はて、何のことやら。

駅のホームに行き見せて頂いてようやく分かりました♪
待合室に置き傘コーナーがあります!

 

1473037734297

 

数えてみると…
10本!!*゚Д゚)*

新津さんは、ご自宅の最寄り駅 小海線青沼駅に貸し出し用の傘を毎年10本ずつ新調しながら置いているのだそうです。
きっかけは約60年前の事。
通勤の電車から降りるとどしゃぶりの雨に降られてしまったのだそうです。
「こんな時に置き傘があれば良いなぁ。」
そう思った新津さんはすぐに青沼駅と臼田駅に置き傘を10本置かせてもらったのだそうです。
それから毎年10本ずつ新しくしながら傘を設置していったとの事。

今でこそ傘はお安い物もありますが、その始められた当時はかなり高価な物だったそうです。
新津さんのお給料は月給1万2千円。
傘は一本1000円。
えっ!!給料の約一か月分じゃないですかΣ(Д゚;/)/

かなり大きな負担だったそうですが、自分で決めた事だからとやめようとは思わなかったそうです。

今年、JR長野支社から表彰され、ご家族やお知り合いの方々から沢山褒めてもらったと嬉しそうな新津さんでした♪
小さな事でも続けることが大きな事に繋がる。みんなから大切にしてもらえて幸せだと、新津さんは十重に幸せを感じていらっしゃるようでした。新津さんにお会いして、私も幸せを分けて頂きました!ありがとうございました♪♪♪

 

 

斉藤 美穂

「夏の夜 村中が真っ暗になる村があるらしい!?」

「村中が真っ暗になる」

この現代社会で、村中真っ暗になるってどういうことなんだろうと思って

調査に出かけたのが

阿智村です。




なぜ、村中が真っ暗になるのか?

そのヒントは

「日本一」




阿智村の日本一のために

ある夏の夜

村中が真っ暗になるんです




阿智村を真っ暗にしてしまおうと企画したのは

「日本一の星空を眺めよう実行委員会」

実行委員長の吉川優さんにお話を伺いました




阿智村は環境省が実施した

「全国星空継続観察(スターウォッチィングネットワーク)」で

「日本で最も星が輝いて見える場所」として

平成18年に全国第1位に選ばれました




その星空は、話題が話題を呼び

連日、多くの観光客が訪れるようになっています




その星空を見るために、村内の各家庭で

一斉に電気を消して

真っ暗になった村から7000人の村民全員で

星を眺めようというものなんですが




一般家庭ばかりでなく、阿智村には昼神温泉の温泉街があります

そこに建ち並ぶ各旅館にも、協力を要請

高速道路などはさすがにダメですが

できる限り、真っ暗に近づけるように取り組んでいるんだそうです




なぜ、こうした企画が考えられたのか?




観光客には本当に人気の星空で

今年の夏は毎晩3000人もの人が

この星空を見るために

阿智村を訪れているのですが

その足元に住む住民の皆さんは普段5分と星を眺めることはないだろうということで

村中の電気を意識的に一斉に消すことで

意識してその星空の素晴らしさに触れてみる

というのが狙いのようです

村では、恋人の聖地に選ばれたこともあり

星の婚姻届を作ったところ、こちらも大反響




星一つで、村が大いに盛り上がっているのですが




まさに、これは、村民に村の宝を再認識してもらうためのイベント




そのイベントが行われるのは

今週の土曜日8/27の

夜7:45〜8:00までの15分間




この日は新月に一番近い土曜日ということで

月の光の影響も受けづらい日でもあります




どの家でも電気を消し真っ暗になる瞬間って

どんな風になるんでしょうね〜




日本一の星空ナイトツアー ヘブンスそのはらで

最も感動し、大きな声が上がる演出が

これとよく似ているんです




ロープウェイで山頂に全員がのぼり切ってしばらくすると

10、9、8…

とカウントダウンが始まります

観光客の皆さんは

シートを敷いて

その上に寝そべって

そのカウントダウンを待ちます



そのカウントダウンが0になった瞬間

会場内のすべての電気が消されるんです




消えた瞬間に、

バ〜!!!

っと今まで見たことがないほどの

無数の星空が目の前に広がっているんです




必ず、観客から「ワ〜〜!!!という感嘆の言葉が響いてきます




それと似たようなことが行われるわけですから

その瞬間どんな風に変わるのか

楽しみです




さらに、こうして村中を真っ暗にすることで

その他にも感じてほしいことがあるんだそうです

キーワードは

「過去・現在・未来」

過去は

戦時中のB29からの攻撃を避けるため

電気を消して身をひそめていた

そんな時代を思い出して

おじいちゃんおばあちゃんに

話を聞く機会にしてほしい

現在は東日本大震災の時の

福島原発の周辺の暗さ

電気のない世界を体験することで

島原発の事を忘れないでほしい

未来は

都会ではもう絶対にできない

こうした取り組みを通して

自然の大切さを未来につなげていきたい




様々な思いを込めて

このイベントが行われるそうです




27日は、いろんな意味で、意味深い夜になりそうですね




村中真っ暗になる村は、自分たちの村の「宝物」を再認識し

きれいな星空を楽しむために一斉消灯する阿智村の事でした







阿智村のきれいな星空に魅了されている 西村容子 でした☆

川上村には 作るのにとっても体力のいるおまんじゅうがあるらしい!?

おまんじゅうと言えば、みんなに愛される食べ物♪

その土地ごとに味や作り方の違うおまんじゅうがみられますよね。

川上村には…

作るのにとっても体力のいるおまんじゅうがあるそうですよ!

なんでも、昔から各家庭で作られ食べられている川上村の郷土食なのだそうです。

 

作るのがとっても大変なおまんじゅうなのですが、昔から食べられているおまんじゅうという事なので川上村の元気なおばあちゃん達に作って頂きました!!川上村の介護予防事業の一つ「お達者クラブ」に通われている70~80代の女性達です。とってもお元気な方々で、その「体力のいるおまんじゅう」作りも一致団結で取り組んでくださいました♪

 

1468195180892

 

まず、どんなおまんじゅうなのかを伺うと…

 

「ポンポンやってみて。」

「元気なおまんじゅうですよ。」

「はりこしまんじゅうって言います。」

 

との事。

…はりこしまんじゅう???

一体どんなおまんじゅうだと思いますか?

 

◇材料は、そば粉または小麦粉、ネギ、ショウガ、味噌、水◇

 

1468195287855

 

◇レッツ クッキング~!!◇

 

1468195305513

 

小麦粉の方が人気があるそうですが、この日はそば粉と小麦粉を半々にして作りました。

お粉に刻んだネギとショウガをたっぷりと入れ、味噌を水で溶いた汁を入れます。

丸められるくらいの硬さになるまでこねます。

 

ここまでは普通ですね。

 

さて、ここからです。

おばあちゃん達、手のひらサイズにまとまったおまんじゅうのタネをお椀に入れ…

 

1468195269852

 

ポンポーン!とタネを上に飛ばし始めました!!(*゚Д゚*)

どのおばあちゃんを見ても飛ばしています!!

 

1468195246530  1468195232493

 

どんなおまんじゅうなのか。

ヒントはおまんじゅうの名前に隠されています。

 

はりこし まんじゅう。

はり こし まんじゅう…

梁 越し まんじゅう!

分かりましたか?

 

そうです。梁を越すくらいに高くまでとばして作るおまんじゅうなのですΣ(Д゚;/)/

どうですか?すごいおまんじゅうでしょ!?

と言うか、ばーちゃん達 すごい!!(笑)

 

更に…

おばあちゃん達、調子が出てきたようで歌も歌い始めました!!

 

「♪はり~こ~し まん~じゅう~ 馬も顔~だ~す 囲炉裏ば~た~

あっちゃ見ろ そ~ずら、まったく そ~ずら」

 

この歌は「川上小唄」です。

もともと囲炉裏で作るおまんじゅうなのですね。昔はどこの家も馬を飼っていて、居住空間からも馬が見えたのだそうです。囲炉裏端ではりこしまんじゅうを作っていると、馬も顔を出すという歌のようです。はりこしまんじゅうという名前はこの歌の歌詞からつけられたそうです。

 

 

気分良く作っているところ邪魔するようで申し訳ありませんでしたが、伺ってみました。

「3メートル位高くまで上げるのですか?」

答えは、こうです。

「そんなに高くまで飛ばすわけないに~」

…そ、そ、そうですよね(笑)

 

実は、「梁を越して作るおまんじゅう」ではなく、「梁を越すくらいにして作るおまんじゅう」なのだそうです。なので、高さにして大体50、60cm程。それでも小さなお椀で飛ばしたりキャッチしたりとするこのおまんじゅうはオリンピック並み!おばあちゃん達のパワーには圧倒されっぱなしでした。

 

丸まったタネを平らにし(せっかく丸めたのに潰しちゃう)、ホットプレートで焼きます。

本来は囲炉裏にフウロという鉄板を使って焼き、灰の中に入れ、それから食していたのだそうです。

 

1468194526209

 

完成~!

素朴な味なのですが、香ばしいお味噌の味と、ショウガやネギの香りがとっても美味しかったです♪♪♪

 

久しぶりに自分たちで作って食べるはりこしまんじゅうのお味はいかに!?

「美味しいなぁ!」

「懐かしいなぁ!」

「昔はあーだった、こーだった…」

おばあちゃん達のおしゃべりが止まりません(笑)

 

懐かしいお味に、昔の思い出が甦ったようです。

昔、学校から帰るとお母さんがはりこしまんじゅうを作って待っていてくれた事。草刈りの仕事に行く時にいつも作っておやつに持たせてくれた事。

おばあちゃん達の母さんの味ですね♪

現代ではもっと美味しい物が沢山あるので、今の子ども達はあまり好んで食べないそうです。でも、川上村を築き上げてきた人たちの歴史が詰まった食べ物。これからも後世に伝えていって欲しいなぁと思いました。

 

 

 

斉藤 美穂

 

 

 

 

日本の歴史を飯田から語ることができる!って本当?

日本の歴史を飯田から語る…
一体どういうことなんでしょう?

それは
飯田のあるものが
日本の歴史を語る上で
とても重要な意味を持っているようなんですが…

その日本の歴史を物語るものとは…

「古墳」

なんです

この飯田の古墳が、他では見られない特徴があるというのです

飯田で古墳を語らせるならこの方、長野県考古学会 会長の小林正春さんに伺ってみると・・・

飯田には700基もの古墳が存在するんですが
その中に23基もの「前方後円墳」があるんです

IMG_3431 これがよく見るとわかりますか?前方後円墳

IMG_3429 こっちが四角い方




古墳の中でも最上位と言われる「前方後円墳」
いわゆる位の高い
作ってもいいと許可を出された人だけが作ることを許されたお墓

それも、その範囲はたったの10km
その間に23基もくらいの高い人たちののお墓がある

普通、想像できませんよね〜

これだけ集中して
前方後円墳が存在するのは珍しいそうなんです

その多さを数字で表すと
普通古墳群の中に1%位の割合でしか前方後円墳はないのに
飯田では4%もの割合で前方後円墳のお墓がある
全国平均の4倍です

という事で、この飯田の古墳群が、国の史跡として指定されることになったんですが

実はこれも、今までの古墳の史跡指定の中では異例なことだと
専修大学文学部の圡生田純之教授は話してくださいました

なぜ異例なのか?
それは、今までは全長100メートルを超える規模の大きな古墳が指定されることがほとんどで
今回の飯田の古墳群のように70mほどの中型のものが指定されることは珍しい
さらに、今までは単体での指定だったのが、
古墳群として複数の古墳が一緒に指定されるのも珍しいということなんです

さらに、圡生田先生がピカイチということがあるんです

それは、その種類の多さ

IMG_3424 IMG_3425

普通は、一つの地域に古墳の石室の種類は1つしかないのに
飯田の古墳群には5種類もの違った石室の古墳が
混在している

そんなことは極めて珍しく

それは、中央の複数の大豪族と
この地がつながっていたことを表す
と言うのです
それを結びつけたのが

「馬」

飯田はその当時
馬の一大生産地で
大和朝廷が出来上がる前
様々な大豪族が勢力を競い合っていた中
馬と言う当時、人を超える大きな力を持つものを
自分の力の象徴として大事にし
それを、ここ飯田の地に求めた

という事で、各豪族によって作り方の違う
様々な種類の古墳が出来上がったというわけです
さらに、馬の骨の出土が
他ではありえないほど多く
普通1県で10例ほどしかない中で

飯田だけで28例もの出土がある

これも飯田が馬の日本一の生産地だった事を物語っている
さらに、この古墳群の特徴から
その時代
飯田が信濃の国の今で言う

県庁所在地

だった可能性が高い
しかも、日本に4つしかない、ある石室の内
3つが飯田にあり
世界に目を広げると
朝鮮に全く同じものが存在する事実から

石室は自分の生れた土地の形を受け継ぐ習慣があったことから
その当時渡来人が飯田にいた可能性が高く

飯田は当時

国際都市

だった可能性も高いそうだ
さらにさらに

飯田から出土する当時のものは
他のどこでもまだ使われていなかった
最新鋭のものが多く

国際テクノポリス

だったのではないかとも、二人の先生は語ってくださいました
驚きはまだ治まらず

当時、都は一つでなく
三つくらいあった方がいいという考え方があった中で

この飯田の地もその候補にあがっていたとか・・・

もう歴史ロマン満載の
飯田の古墳群

これからの展開がとっても楽しみだな~

と実感した調査でした

IMG_3422
調査中、ゾクゾクしっぱなしの 西村容子 でした☆

直径1メートルの巨大は花が、松本で見られるらしい。

まずはこの写真をご覧ください!

IMG_3123

これがその、直径1メートルの巨大な花。

ジャイアントフラワーというそうです。


松本市でル・ジュエというサロンを主宰している、米山 加苗さんが作ったお花。

松本局のスタジオに持ってきてくれました。

巨大は花と聞いて、ちょっぴりグロテスクなものを想像してしまったのですが、

実際に見ると、とってもかわいいでしょ?
 
 

米山さんは、松本でプリザーブドフラワーやアーティフィシャルフラワーを作ったり、

教室を開いて作り方を教えたりしています。

その技術を生かして作っているという、このジャイアントフラワー。

いったい、どういう用途があるんでしょう?
 
  

「注目されているのは、ブライダルです。

ウエディングドレスを着た花嫁さんがブーケの代わりに持ったり、

ジャイアントフラワーに囲まれて写真を撮ったりするのが、

昨年の秋ごろから、東京で徐々に流行りだしているんですよ。」


IMG_3125

IMG_3126

 

なるほど、こういう使い方なんですね。

ファンタジックです!

 

「大きな花を持っただけで、

童話の世界に入り込んでしまったような雰囲気。

ファンタジーの世界を演出してくれるアイテムなんですよ。

私は昨年こういう写真を見て、この可愛らしさにひかれて、

すぐに東京へ行って技術を学んだんです。」

 

今年の5月から作り始めて、もうすでに20個あまり。


「最近では、花束の代わりにプレゼントしたいとか、

洋服屋さんや美容院でお店をかわいく演出したい、

などの注文を受けます。

もちろんブライダルにも素敵ですけど、

そのほかにも、いろんな使い方があるので、

どんどん広めていきたいと思っています。」


教室も開いていて、とても好評だそうです。

1回のレッスンでちゃんと作れるように、丁寧に指導してくれます。


「自分で作ったジャイアントフラワーを眺める、

みなさんの嬉しそうな表情が楽しみなんです。

やっぱり女性は、可愛いものに囲まれたり、見たりするのが大好きだし、

可愛いものを見ている女性の表情は、とっても可愛いですよね。

世の中に、可愛い女性がどんどん増えていくといいな~。

そのためにも、頑張りたいです!」

  

巨大なお花ジャイアントフラワーは、

それ自体よりむしろ、一緒にいる女性を可愛くさせてくれるお花なんですね。

見たい!! って方。

ぜひ、米山さんに連絡をしてみてくださいね。

ル・ジュエ 0263-75-9737 です。





直径1メートルの巨大は花が、松本で見られるらしい。

まずはこの写真をご覧ください!

IMG_3123

これがその、直径1メートルの巨大な花。

ジャイアントフラワーというそうです。


松本市でル・ジュエというサロンを主宰している、米山 加苗さんが作ったお花。

松本局のスタジオに持ってきてくれました。

巨大は花と聞いて、ちょっぴりグロテスクなものを想像してしまったのですが、

実際に見ると、とってもかわいいでしょ?
 
 

米山さんは、松本でプリザーブドフラワーやアーティフィシャルフラワーを作ったり、

教室を開いて作り方を教えたりしています。

その技術を生かして作っているという、このジャイアントフラワー。

いったい、どういう用途があるんでしょう?
 
  

「注目されているのは、ブライダルです。

ウエディングドレスを着た花嫁さんがブーケの代わりに持ったり、

ジャイアントフラワーに囲まれて写真を撮ったりするのが、

昨年の秋ごろから、東京で徐々に流行りだしているんですよ。」


IMG_3125

IMG_3126

 

なるほど、こういう使い方なんでうね。

ファンタジックです!

 

「大きな花を持っただけで、

童話の世界に入り込んでしまったような雰囲気。

ファンタジーの世界を演出してくれるアイテムなんですよ。

私は昨年こういう写真を見て、この可愛らしさにひかれて、

すぐに東京へ行って技術を学んだんです。」

 

今年の5月から作り始めて、もうすでに20個あまり。


「最近では、花束の代わりにプレゼントしたいとか、

洋服屋さんや美容院でお店をかわいく演出したい、

などの注文を受けます。

もちろんブライダルにも素敵ですけど、

そのほかにも、いろんな使い方があるので、

どんどん広めていきたいと思っています。」


教室も開いていて、とても好評だそうです。

1回のレッスンでちゃんと作れるように、丁寧に指導してくれます。


「自分で作ったジャイアントフラワーを眺める、

みなさんの嬉しそうな表情が楽しみなんです。

やっぱり女性は、可愛いものに囲まれたり、見たりするのが大好きだし、

可愛いものを見ている女性の表情は、とっても可愛いですよね。

世の中に、可愛い女性がどんどん増えていくといいな~。

そのためにも、頑張りたいです!」

  

巨大なお花ジャイアントフラワーは、

それ自体よりむしろ、一緒にいる女性を可愛くさせてくれるお花なんですね。

見たい!! って方。

ぜひ、米山さんに連絡をしてみてくださいね。

ル・ジュエ 0263-75-9737 です。





山の日制定の年に、40年前の貴重な音源が発見されたらしい?

8月11日今年制定されました。山の日。皆さんは何か??山の日ならではの過ごし方などはされましたか?
山の日にあえて海に行った友達もいましたし。

山の日だからとやはり近くの山など登山。トレッキング。という方も大方のでは?と思います。
そんな中・・・。なんと!この山の日制定の今年。貴重な!山に関する音源が発見されたらしいと聞き。
早速調査してみました。その音源とは、なんと!1976年日本・イラン合同マナスル秋季初登頂の記録音源なんです。
マナスルとは。ネパールの山でヒマラヤ山脈に属し、標高8165メートル世界8位の山です。
マナスルはサンスクリット語で「精霊の山」という意味で、日本人が登頂成功例が多く。
ネパールの「日本の山」と呼ばれるくらいだそうです。

そんなマナスルは、春と秋にしか登頂はできない。夏は雨期。冬山はもってのほか。
1956年今から60年前に日本人初登頂に成功しました。これが、4月下旬。秋に登頂が成功した。
そこから20年後の今回貴重な音源が発見されたのが、1976年日本・イラン合同マナスル秋季初登頂となります。
この音源を発見というか・・。お持ちになっていたのが!田村宜紀(のぶよし)さん。

田村さんは、こんな方です。

田村さんは、1940年昭和15年生まれ。今の長野市豊野町のご出身。
長野県の山岳協会の会長さんを務めていらっしゃった方で、もちろん!
今回の音源のマナスルへの合同隊にもいた方です。日本・イランの合同ではありますが、
登攀隊長(とはんたいちょう)に就任しての登頂の指揮をとっていらっしゃいました。
そんな!田村さんにとってみても!今回の山の日制定。どんな思いか??
聞いてみました。


山の日は登山の日ではなく。山に感謝する日。本当にそうですね。
とはいえ、田村さん自身は。8月6日からチベットに行って。
ダマバンドという。5600メートルの山に登山に行ってそろそろお帰りになるころかと思います。

田村さんに。1976年の登山について聞いてみました。

日本の山マナスルと言われるくらい、日本人の登頂成功が多い山ですが!このように秋に登頂成功させるのはとても難しい。
どんどん冬に向かって雪が降り日が短くなるわけですから!それにしてもこれだけ貴重な音源が40年。
タンス中に眠っていたのもびっくりですが・・。今回導かれるように発見されたそうです。


縁あって今年見つかりましたこの音源。
記念式典に持っていかれイランの当時の方も大変喜んでくれたのでは??とのことです。

調査員 竹井純子



情報わんさかGO!GO!ワイド らじ★カン 番組へメール radiko SBCラジオ

日替わり調査員

月曜日 根本 豊 東信担当

寺山修司の演劇実験室「天井桟敷」に所属していた演劇人。
福島出身で標準アクセントがいまだに身につかない。無類の酒好き。

火曜日 竹井 純子 北信担当

SBCのラジオカーレポーターを経て、調査隊員に。
中野市出身、豪快な笑い方が特徴。愛用の手提げバッグのデザインが下品と評判。

水曜日 塚原 正子 中信担当

ロック好き。電話するとだいたいエレベーターに乗っている。謎多き女性。
松本市出身。中学・高校のあだ名は「かっぺ」。

木曜日 西村 容子 南信担当

元民放テレビ局のアナウンサー。3人の子どもを育てながら、おもしろいネタがないかとアンテナを張りめぐらしている。への字まゆげがチャームポイント。飯田市出身。

< 2016年08>
S M T W T F S
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
QRコード
QRCODE
インフォメーション
長野県・信州ブログコミュニティサイトナガブロ
ログイン

ホームページ制作 長野市 松本市-Web8

アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 5人
プロフィール
SBCラジオ