「信濃の国を調べたら、飯田高校の校歌の不思議に出会ったよ」
2019年03月07日
先週は、信濃の国 県歌制定50周年企画ということで
南信の代表として、信濃の国で歌われている
「太宰春台」って誰?
ということで調査しましたが
その太宰春台は
信濃の国ばかりでなく
飯田下伊那では信濃の国と肩を並べる「下伊那の歌」と
飯田高校の校歌にも名前が出てくる
ということで調べていくうちに
いろんなことがわかってきました
まずは先週のおさらい
信濃の国に歌われている太宰春台とはどんな人なのか?
太宰春台とは
江戸時代、飯田市で生まれ、父親の都合で10歳そこそこで飯田を離れ江戸に行き
当時、国を代表する儒学者だった人
「経済録」という書物は有名で、日本で初めて「経済」という言葉を広めた人でもあります
その春台が信濃の国に歌われ、下伊那の歌にも、飯田高校の校歌にも歌われている
特に飯田高校の校歌にも歌われているのは
時代的背景から見て、信濃の国の影響が色濃くあるのではないかと
飯田高校で、校歌について調べている国語科の荻原佳祐先生はお話くださいました
飯田高校の校歌は、信濃の国が作られた6年後の作られています
さらに、信濃の国の作詞者 浅井冽と、飯田高校の校歌の作詞者 福沢悦三郎は同じ長野師範学校に同時期にいたという事で
信濃の国に浅井冽が、太宰春台を選んで歌詞に入れたことで
飯田高校の校歌の3番には太宰春台の名が入ったということが想像できるということです
そして、この調査を始める時からずっと引っかかっていた
どうしてこんなに、太宰春台を知る人が少ないのか?
校歌に入っているんだから、その名前くらいは全校生徒が知っていてもおかしくない
実は私も飯田高校出身ですが
全く知らなかった
調査をしてみると
それには意味があったんです
実は、飯田高校では、太宰春台が歌われている3番だけは
ほとんど歌われることがないんです
調査していて驚いたのは
ネットで飯田高校の校歌を検索して聞いてみると
そこでも3番だけが抜けている、歌われていないんです
校歌として残すためのものなら、全部を歌って残すもの
ものすごく不自然に感じた私は
そこには意図的な何かがあるんのではないか?と、思い
どうして歌われないか?
素朴な疑問を荻原先生に伺ってみましたが
随分前から歌われていなくてその真相は分からないという事でした
でも、この歌詞を作った福沢悦三郎さんは、深い思いがあって春台を歌詞に入れたのではないか
というのが、歌詞を読むと分かると荻原先生はおっしゃるんです
校歌の冒頭の歌詞は
「赤石山は、巍々として我が南信の骨をなし」
とはじまります
そして、実は、3番の春台の歌詞にも「骨」と言う字が使われているんです
赤石山を南信の骨と歌い
文化の骨として春台を出した
その「骨」と言う言葉に意味を持たせたというのは、一緒に興味を持って研究していらっしゃる校長先生も同じ考えを持ってこの歌詞を見ているということで
やはり春台は、この地域にとっては本当に大切な人だったんだということがわかります
でも、調査中に
高校生からこんな素朴な疑問が出てきました
「どうして、菱田春草の方が有名なのに春草じゃなかったのか?」
というもの
それは、時代を見れば簡単
作詞者の福沢悦三郎と菱田春草は同じ年に生まれています
明治39年に作られた校歌では、芸術家として認められるのがまだまだ先だったので
春草がここには載らないのは当たり前ということになります
信濃の国を調べていたら、飯田高校の校歌の不思議に出会ってしまいました
いろんな形で、信濃の国は影響を与えているんでしょうね
春台を知らなくて恥ずかしいな~と思った 西村容子 でした♡
南信の代表として、信濃の国で歌われている
「太宰春台」って誰?
ということで調査しましたが
その太宰春台は
信濃の国ばかりでなく
飯田下伊那では信濃の国と肩を並べる「下伊那の歌」と
飯田高校の校歌にも名前が出てくる
ということで調べていくうちに
いろんなことがわかってきました
まずは先週のおさらい
信濃の国に歌われている太宰春台とはどんな人なのか?
太宰春台とは
江戸時代、飯田市で生まれ、父親の都合で10歳そこそこで飯田を離れ江戸に行き
当時、国を代表する儒学者だった人
「経済録」という書物は有名で、日本で初めて「経済」という言葉を広めた人でもあります
その春台が信濃の国に歌われ、下伊那の歌にも、飯田高校の校歌にも歌われている
特に飯田高校の校歌にも歌われているのは
時代的背景から見て、信濃の国の影響が色濃くあるのではないかと
飯田高校で、校歌について調べている国語科の荻原佳祐先生はお話くださいました
飯田高校の校歌は、信濃の国が作られた6年後の作られています
さらに、信濃の国の作詞者 浅井冽と、飯田高校の校歌の作詞者 福沢悦三郎は同じ長野師範学校に同時期にいたという事で
信濃の国に浅井冽が、太宰春台を選んで歌詞に入れたことで
飯田高校の校歌の3番には太宰春台の名が入ったということが想像できるということです
そして、この調査を始める時からずっと引っかかっていた
どうしてこんなに、太宰春台を知る人が少ないのか?
校歌に入っているんだから、その名前くらいは全校生徒が知っていてもおかしくない
実は私も飯田高校出身ですが
全く知らなかった
調査をしてみると
それには意味があったんです
実は、飯田高校では、太宰春台が歌われている3番だけは
ほとんど歌われることがないんです
調査していて驚いたのは
ネットで飯田高校の校歌を検索して聞いてみると
そこでも3番だけが抜けている、歌われていないんです
校歌として残すためのものなら、全部を歌って残すもの
ものすごく不自然に感じた私は
そこには意図的な何かがあるんのではないか?と、思い
どうして歌われないか?
素朴な疑問を荻原先生に伺ってみましたが
随分前から歌われていなくてその真相は分からないという事でした
でも、この歌詞を作った福沢悦三郎さんは、深い思いがあって春台を歌詞に入れたのではないか
というのが、歌詞を読むと分かると荻原先生はおっしゃるんです
校歌の冒頭の歌詞は
「赤石山は、巍々として我が南信の骨をなし」
とはじまります
そして、実は、3番の春台の歌詞にも「骨」と言う字が使われているんです
赤石山を南信の骨と歌い
文化の骨として春台を出した
その「骨」と言う言葉に意味を持たせたというのは、一緒に興味を持って研究していらっしゃる校長先生も同じ考えを持ってこの歌詞を見ているということで
やはり春台は、この地域にとっては本当に大切な人だったんだということがわかります
でも、調査中に
高校生からこんな素朴な疑問が出てきました
「どうして、菱田春草の方が有名なのに春草じゃなかったのか?」
というもの
それは、時代を見れば簡単
作詞者の福沢悦三郎と菱田春草は同じ年に生まれています
明治39年に作られた校歌では、芸術家として認められるのがまだまだ先だったので
春草がここには載らないのは当たり前ということになります
信濃の国を調べていたら、飯田高校の校歌の不思議に出会ってしまいました
いろんな形で、信濃の国は影響を与えているんでしょうね
春台を知らなくて恥ずかしいな~と思った 西村容子 でした♡
この記事へのコメント
はじめまして。突然のコメント失礼いたします。
私は飯田高校の卒業生です。
飯田高校の校歌の3番は時代錯誤的な内容があるため現在では歌わないと在学中に説明を受けました。
具体的にどの箇所を問題視しているのか分かりませんが「侫諛の俗を退けて 血ある女と謳はれし」という歌詞がそこに該当するのかなと思っています。
Posted by ちょも at 2020年07月11日 16:44