あれ? 松本市には名前に東西南北がつく学校がない! なんで?
2015年01月16日
松本市内の小学校、中学校、そして高校も!
名前に東西南北がつく学校がないんですよ。
他の地域にはありますよね?
何故なんでしょう?
理由があるのか、たまたまなのか。
元松本市立博物館の館長で、松本市史の編纂にたずさわった、
佐藤 玲子さんに聞きました。
82歳っておっしゃっていましたけど、
とってもお元気で素敵な女性でした ♡♡♡

さて。本題。
話は終戦直後にさかのぼります。
昭和22年。学校制度が、今の6・3・3・4・年制に変わりました。
この時に、学校の名前も変わったんです。
長野県の小学校、中学校は、ほとんどが土地の名前を学校名にしました。
松本は同じ地域に学校が2つもなかったから、東西南北を付ける必要がなかった。
あ。開智は別です。これはもう、明治時代からありましたから。
というわけで、開智小学校以外の小・中学校は、地域の名前が学校名になっています。
でね。問題は高校なんです。
それまでの中等学校が、この改革で高校になりました。
で、名前を付けるにあたって。
敗戦国であった日本は、アメリカ軍の占領下になりました。
長野に軍政部があって、その監督下でのこの改革。
軍から条件が出されていたそうです。
それは、
第1、第2など順列をつけるものは名前に使ってはいけない。
男女共学が望ましいから、名前に男子女子もだめ。
この2つ。
これを受けて県からは、地名と方位(東西南北)は使ってもいい、
という条件が出ました。
だから、県内の多くの高校が、地名+東西南北、という名前になったそうです。
長野西、伊那北、というぐあいにね。
ところが。
松本の場合は特別な事情がありまして。
<その1>
昭和20年ぐらいの松本は、ほかの地域に比べて、中等学校がとても多かったんです。
県立の中等学校が5つ。市立が2つ。
そして私立の松本商業学校や、そのほかにも実業学校もあって、
とにかく多かった。
<その2>
その上の高等学校も充実していた。
大正時代からある松本高等学校、医学専門学校(医専)、
さらに、長野県の女性の最高学府である松本女子師範学校。
つまり・・・ものすごく厚い教育体制がすでにあった。
でね。
こういう事情があって、
教育、学校に対する想いがとても熱かった土地柄なもんだから、
学校の名前にも、相当なこだわりがあったらしいんです。
「あのね、どの学校もみんな、松本をつけたかったの。
でも、松本高等学校っていう名門校があったから、
松本高校ってやるわけにいかないのよ(笑)。だから困っちゃって。
どの学校もそれはもう一生懸命、真剣に考えたのね。」
その結果。
松本の古い、由緒ある地名を使って、それを松本にくっつけた。
松本深志高校、松本県が丘高校、松本蟻ケ崎高校・・・。
当時の高校の名前はすべて、「松本」で始まるんです。
「つまりね。学校の数も、思い入れも、
東西南北だけじゃ足りなかったのね。
それだけ、学校に対して、教育に対して、熱い想いがあったのね。
それぞれの学校の100年史や90年史には、
その想いが、ちゃんと記録されているはずよ。
学校へ行けば見られるから、ぜひご覧になってみてください。」
と佐藤さん。
松本市民としては、とってもありがたいお話。
そして、後世にしっかりと伝えていきたいお話だと思います。
余談なんですが。
佐藤さん。
まさにこの終戦直後、松本の学生さんだったんです。
昭和24年。男女共学になった松本深志高校の、
初代女子生徒、なんですよ!
「あのころはね~・・・」
楽しくて貴重なお話をたくさんたくさん、聞かせて頂きました。
ありがとうございました!!
もっと勉強しなくちゃ、もっとちゃんとしなくちゃ。佐藤さんのような素敵な女性に憧れている、松本の調査隊員 塚原 正子でした。
名前に東西南北がつく学校がないんですよ。
他の地域にはありますよね?
何故なんでしょう?
理由があるのか、たまたまなのか。
元松本市立博物館の館長で、松本市史の編纂にたずさわった、
佐藤 玲子さんに聞きました。
82歳っておっしゃっていましたけど、
とってもお元気で素敵な女性でした ♡♡♡

さて。本題。
話は終戦直後にさかのぼります。
昭和22年。学校制度が、今の6・3・3・4・年制に変わりました。
この時に、学校の名前も変わったんです。
長野県の小学校、中学校は、ほとんどが土地の名前を学校名にしました。
松本は同じ地域に学校が2つもなかったから、東西南北を付ける必要がなかった。
あ。開智は別です。これはもう、明治時代からありましたから。
というわけで、開智小学校以外の小・中学校は、地域の名前が学校名になっています。
でね。問題は高校なんです。
それまでの中等学校が、この改革で高校になりました。
で、名前を付けるにあたって。
敗戦国であった日本は、アメリカ軍の占領下になりました。
長野に軍政部があって、その監督下でのこの改革。
軍から条件が出されていたそうです。
それは、
第1、第2など順列をつけるものは名前に使ってはいけない。
男女共学が望ましいから、名前に男子女子もだめ。
この2つ。
これを受けて県からは、地名と方位(東西南北)は使ってもいい、
という条件が出ました。
だから、県内の多くの高校が、地名+東西南北、という名前になったそうです。
長野西、伊那北、というぐあいにね。
ところが。
松本の場合は特別な事情がありまして。
<その1>
昭和20年ぐらいの松本は、ほかの地域に比べて、中等学校がとても多かったんです。
県立の中等学校が5つ。市立が2つ。
そして私立の松本商業学校や、そのほかにも実業学校もあって、
とにかく多かった。
<その2>
その上の高等学校も充実していた。
大正時代からある松本高等学校、医学専門学校(医専)、
さらに、長野県の女性の最高学府である松本女子師範学校。
つまり・・・ものすごく厚い教育体制がすでにあった。
でね。
こういう事情があって、
教育、学校に対する想いがとても熱かった土地柄なもんだから、
学校の名前にも、相当なこだわりがあったらしいんです。
「あのね、どの学校もみんな、松本をつけたかったの。
でも、松本高等学校っていう名門校があったから、
松本高校ってやるわけにいかないのよ(笑)。だから困っちゃって。
どの学校もそれはもう一生懸命、真剣に考えたのね。」
その結果。
松本の古い、由緒ある地名を使って、それを松本にくっつけた。
松本深志高校、松本県が丘高校、松本蟻ケ崎高校・・・。
当時の高校の名前はすべて、「松本」で始まるんです。
「つまりね。学校の数も、思い入れも、
東西南北だけじゃ足りなかったのね。
それだけ、学校に対して、教育に対して、熱い想いがあったのね。
それぞれの学校の100年史や90年史には、
その想いが、ちゃんと記録されているはずよ。
学校へ行けば見られるから、ぜひご覧になってみてください。」
と佐藤さん。
松本市民としては、とってもありがたいお話。
そして、後世にしっかりと伝えていきたいお話だと思います。
余談なんですが。
佐藤さん。
まさにこの終戦直後、松本の学生さんだったんです。
昭和24年。男女共学になった松本深志高校の、
初代女子生徒、なんですよ!
「あのころはね~・・・」
楽しくて貴重なお話をたくさんたくさん、聞かせて頂きました。
ありがとうございました!!
もっと勉強しなくちゃ、もっとちゃんとしなくちゃ。佐藤さんのような素敵な女性に憧れている、松本の調査隊員 塚原 正子でした。