「国の重要無形民俗文化財に指定された大鹿歌舞伎が今、指定されたワケとは…」
2017年03月23日
県内には10の国の重要無形民俗文化財がありますが
そのうちの6個、半数以上がここ南信州の残されています
これは全国的に見ても珍しいことで
この地域が民俗芸能の宝庫と言われる所以でもあります
県内10個目となった大鹿歌舞伎の重文指定がこの3月正式に決まり
公布が行われました


これは、国の選択無形民俗文化財に指定されてから
20年
一時は、無理だとも言われました
なぜこれほどまでに時間を要したのか?
今日はその謎に迫ります
実は、今日この謎に答えてくださるのは
私たちと同じ調査員
この重文指定に実際に携わった文化庁の文化財部伝統文化課主任文化財調査官 宮田繁幸さん
この重文指定を決めた方、ご本人に直接伺っちゃいました
興味深いお話がいっぱい聞けちゃいましたよ
☆指定に時間がかかったワケ その1
全国に5〜7万もの民俗芸能の中で
重文に指定されるのは、年に2〜3件ほど
しかもその数をたった3人の調査官で調査して指定を決める
祭を見に行く回数も一つの祭りに対して1回で終わらないのは当たり前
時間がかかって当たり前ですよね~
でもそれは、事実ではあるけれど、それほど大きな理由ではなく
他に、民俗芸能の歴史を考えると当然ともいえる理由があったんです
☆指定に時間がかかったワケ その2
南信州で重文指定されている他の無形民俗文化財は
神様に捧げる神事的な要素の強いものばかり
大鹿歌舞伎は娯楽としての要素がとても強い民俗芸能
しかも、江戸、明治の頃はいわゆる東京の歌舞伎座などで演じられている大歌舞伎以外は
一般の人たちが歌舞伎を演じることは法律で禁止されていました
そのため、神様に奉納するという形としてしか演じること許されなかった時代
地芝居である地方の歌舞伎は
大歌舞伎のまね事に過ぎないと判断する研究者も以前は多く
民俗芸能として認められない空気があったようなんです
地芝居を中心とする民俗芸能への評価は選択無形民俗文化財の指定を受けた
20年前でもなお低かったそうで
記録を残す価値がある文化財という意味の選択無形民俗文化財には指定されたものの
研究者などの認識が変わらない以上
重文の指定を受けるのはとても大変なことだった
ということになります
しかし、時が経つというか、研究が進むうちに
大鹿歌舞伎が持っている文化的価値が評価されるようになっていきます
そして、大鹿歌舞伎だから指定に結びついたという理由も大いにあるようでした
☆指定に踏み切ったワケ その3
大鹿歌舞伎は戦時中も明治の経済が衰退した中でも
途切れることなく公演が行われ続けてきた事
そして
舞台を演じるだけではなく
義太夫も三味線も
衣装も化粧も
そのすべてを村民が行っている事
これは本当に珍しいことで
こういう形で守られ続けられてきたことへの評価かなり高かったそうです
さらにそれを楽しむ観客の楽しみ方も、価値が高いようなんです
☆指定に踏み切ったワケ その4
観客からのおひねりの飛び方
ろくべんを持って観劇に行く様子
東京などの大歌舞伎が
今、少しかしこまって見るものになっている中で
本来の歌舞伎の楽しみ方がここにはある
昔からの観客の楽しむ姿が残されているのも意味があることだそうです
そしてもう一つ
今回の重文指定を受けるのに
大切な要素がありました
☆指定に踏み切ったワケ その5
それを、生涯をかけて成し遂げてきた方がいらっしゃいます
大鹿歌舞伎の素晴らしさを身も心も捧げて伝え続けてきた
現在、大鹿歌舞伎顧問の片桐登さんです

この方がいなかったら、重文指定はなかったかもしれないとまで言われる方です
その片桐さんがしてきたこと・・・
今、大鹿村では中学校ばかりでなく、小学校でも4年生から大鹿歌舞伎を学校あげて
取り組んでいて、子供達が地元の伝統文化の素晴らしさを肌で感じ、学ぶ事ができるようになっているんです
そして、その学は、今、大きな成果を上げ
現在の保存会のメンバーの中には9人も中学校で大鹿歌舞伎を体験した人がいます
実はこうしたサイクルが出来上がっている
と言うのが指定のもう一つの大事な要素だったんです
中学校で大鹿歌舞伎を授業で取り扱うようになったのが昭和50年
当時それを働きかけたのが片桐さんでした
しかし、それは容易には受け入れられなかったそうです
今でこそ、学校と地域が連携して…という活動は推奨されますが
当時そんな考えはなく
まず学校を説得するのも大変でしたが
それより大変だったのが
村の議会
「村の教育委員会の職員だった片桐さんが歌舞伎なんかに夢中になってどういうことだ」
と
「そんな職員は辞めさせろ!」
という動きにまでなっていったそうです
それほどまでに、当時は歌舞伎の評価は村の中でも低かったんです
それでも、これには価値があるんだと言い続け
時を同じくして、県の重要無形民俗文化財に指定されたこともあったり
その思いを理解してくれる方も出て
村長さんの家族まで、冬至の村長さんを説得してくれたそうです
片桐さんの熱意は、村の職員として残る動きを作り
3期も村の教育長を務め、子供達への指導を続けました
今、民俗芸能はどの地域でも後継者不足など
この文化をどのようにして「継承」していくかというのが
大きな課題になっています
現に、同じ地芝居である、長谷の中尾歌舞伎は先日継続が難しいということで
活動が休止されてしまいました
この継承のサイクルを作り上げることが重文指定の重要な要件の一つになっているのは
文化を守るという点からも頷けるところです
これを象徴するかのように
今年の5/3の公演では、小学生の子供だけの公演も重文指定記念と言うことで
行われることになっているんだそうです
楽しみですね
大鹿歌舞伎の重文指定に大きな拍手を送りたい 西村容子 でした♡
そのうちの6個、半数以上がここ南信州の残されています
これは全国的に見ても珍しいことで
この地域が民俗芸能の宝庫と言われる所以でもあります
県内10個目となった大鹿歌舞伎の重文指定がこの3月正式に決まり
公布が行われました



これは、国の選択無形民俗文化財に指定されてから
20年
一時は、無理だとも言われました
なぜこれほどまでに時間を要したのか?
今日はその謎に迫ります
実は、今日この謎に答えてくださるのは
私たちと同じ調査員
この重文指定に実際に携わった文化庁の文化財部伝統文化課主任文化財調査官 宮田繁幸さん
この重文指定を決めた方、ご本人に直接伺っちゃいました
興味深いお話がいっぱい聞けちゃいましたよ
☆指定に時間がかかったワケ その1
全国に5〜7万もの民俗芸能の中で
重文に指定されるのは、年に2〜3件ほど
しかもその数をたった3人の調査官で調査して指定を決める
祭を見に行く回数も一つの祭りに対して1回で終わらないのは当たり前
時間がかかって当たり前ですよね~
でもそれは、事実ではあるけれど、それほど大きな理由ではなく
他に、民俗芸能の歴史を考えると当然ともいえる理由があったんです
☆指定に時間がかかったワケ その2
南信州で重文指定されている他の無形民俗文化財は
神様に捧げる神事的な要素の強いものばかり
大鹿歌舞伎は娯楽としての要素がとても強い民俗芸能
しかも、江戸、明治の頃はいわゆる東京の歌舞伎座などで演じられている大歌舞伎以外は
一般の人たちが歌舞伎を演じることは法律で禁止されていました
そのため、神様に奉納するという形としてしか演じること許されなかった時代
地芝居である地方の歌舞伎は
大歌舞伎のまね事に過ぎないと判断する研究者も以前は多く
民俗芸能として認められない空気があったようなんです
地芝居を中心とする民俗芸能への評価は選択無形民俗文化財の指定を受けた
20年前でもなお低かったそうで
記録を残す価値がある文化財という意味の選択無形民俗文化財には指定されたものの
研究者などの認識が変わらない以上
重文の指定を受けるのはとても大変なことだった
ということになります
しかし、時が経つというか、研究が進むうちに
大鹿歌舞伎が持っている文化的価値が評価されるようになっていきます
そして、大鹿歌舞伎だから指定に結びついたという理由も大いにあるようでした
☆指定に踏み切ったワケ その3
大鹿歌舞伎は戦時中も明治の経済が衰退した中でも
途切れることなく公演が行われ続けてきた事
そして
舞台を演じるだけではなく
義太夫も三味線も
衣装も化粧も
そのすべてを村民が行っている事
これは本当に珍しいことで
こういう形で守られ続けられてきたことへの評価かなり高かったそうです
さらにそれを楽しむ観客の楽しみ方も、価値が高いようなんです
☆指定に踏み切ったワケ その4
観客からのおひねりの飛び方
ろくべんを持って観劇に行く様子
東京などの大歌舞伎が
今、少しかしこまって見るものになっている中で
本来の歌舞伎の楽しみ方がここにはある
昔からの観客の楽しむ姿が残されているのも意味があることだそうです
そしてもう一つ
今回の重文指定を受けるのに
大切な要素がありました
☆指定に踏み切ったワケ その5
それを、生涯をかけて成し遂げてきた方がいらっしゃいます
大鹿歌舞伎の素晴らしさを身も心も捧げて伝え続けてきた
現在、大鹿歌舞伎顧問の片桐登さんです

この方がいなかったら、重文指定はなかったかもしれないとまで言われる方です
その片桐さんがしてきたこと・・・
今、大鹿村では中学校ばかりでなく、小学校でも4年生から大鹿歌舞伎を学校あげて
取り組んでいて、子供達が地元の伝統文化の素晴らしさを肌で感じ、学ぶ事ができるようになっているんです
そして、その学は、今、大きな成果を上げ
現在の保存会のメンバーの中には9人も中学校で大鹿歌舞伎を体験した人がいます
実はこうしたサイクルが出来上がっている
と言うのが指定のもう一つの大事な要素だったんです
中学校で大鹿歌舞伎を授業で取り扱うようになったのが昭和50年
当時それを働きかけたのが片桐さんでした
しかし、それは容易には受け入れられなかったそうです
今でこそ、学校と地域が連携して…という活動は推奨されますが
当時そんな考えはなく
まず学校を説得するのも大変でしたが
それより大変だったのが
村の議会
「村の教育委員会の職員だった片桐さんが歌舞伎なんかに夢中になってどういうことだ」
と
「そんな職員は辞めさせろ!」
という動きにまでなっていったそうです
それほどまでに、当時は歌舞伎の評価は村の中でも低かったんです
それでも、これには価値があるんだと言い続け
時を同じくして、県の重要無形民俗文化財に指定されたこともあったり
その思いを理解してくれる方も出て
村長さんの家族まで、冬至の村長さんを説得してくれたそうです
片桐さんの熱意は、村の職員として残る動きを作り
3期も村の教育長を務め、子供達への指導を続けました
今、民俗芸能はどの地域でも後継者不足など
この文化をどのようにして「継承」していくかというのが
大きな課題になっています
現に、同じ地芝居である、長谷の中尾歌舞伎は先日継続が難しいということで
活動が休止されてしまいました
この継承のサイクルを作り上げることが重文指定の重要な要件の一つになっているのは
文化を守るという点からも頷けるところです
これを象徴するかのように
今年の5/3の公演では、小学生の子供だけの公演も重文指定記念と言うことで
行われることになっているんだそうです
楽しみですね
大鹿歌舞伎の重文指定に大きな拍手を送りたい 西村容子 でした♡