「松川町に、戦後70年、住民に守られ続けているお墓があるらしい」
2015年08月13日
戦後70年、もうすぐ終戦記念日を迎えます。
今日は、ちょっと心が温かくなる戦争の話題を調査してきました。
住民に守られ続けているお墓・・・それはいったい誰の、どんなお墓なのでしょうか?
まずは実際そのお墓を訪ねてみることにしました。
案内をしてくださったのは、元松川町資料館の酒井幸則さんです。
酒井さんが案内してくださったのは、松川町生田の塩倉という所。
県道からちょっと入っていった所にそのお墓はありました。

これが一体、誰のお墓なのか伺ってみると・・・

昭和19年8月8日の正午頃、生田村塩倉(現在の松川町生田)の役場近くに、突如として、一機の小型戦闘機が墜落した。
その時の様子を、墜落現場、現在お墓のある場所のすぐ近くに住み、当時小6だった塩倉充(みつる)さんに伺ってみると・・・
突然「ギギ~!!!」というすごい音がして、山の中に戦闘機が落ちて行った。
その音が今でも耳に残っている・・・
と塩倉さん。
ちょうどお昼頃だったので、操縦士の兵隊さんの荷物からはおにぎりが出てきたりしたそうです。
操縦桿をにぎる手がなかなか取れず、どうにか墜落を回避しようとした姿が目に浮かんだそうです。
軍は、その墜落事故を受けていち早く現地に赴き、機体の回収をしていったそうです。

酒井さんが調べてみるとその戦闘機は、最新鋭の戦闘機だったらしく、機密情報が漏れることを恐れていち早く回収しに来たのではないかという事でした。
しかし、操縦士の遺体はその場に置き去りにされました。
後に家族は軍から遺骨を引き取りに来るように言われて、宇都宮まで行ったのですが、骨箱には石ころが少し入っているだけだったそうです。
その遺体を、塩倉の人たちは、一晩かけて荼毘に付して、埋葬。
そのお墓を、そこの婦人会の人たちが、戦後50年を過ぎても守り続けたんだそうです。
春と秋のお彼岸やお盆には、その墓の掃除をし、花と線香を供えました。
酒井さんの調査の中で、この塩倉という地域は他の下伊那の地域の中でもダントツに、戦争から生きて帰ってきた人の数が少なかったことが分かっています。
もしかしたら、その悲しみを、みんなで分け合い、その拠り所といっては変ですが、いろんな思いでこのお墓の供養を続けたのかもしれません。
その見ず知らずの兵隊さんの名前は、長崎県出身の澤田熊雄さん(享年22歳)ということが後に分かってきます。
昭和54年に37回忌の供養をかねて、遺族がお墓を訪れた際、「墓標は草木に埋まり、相当荒れ果てているんだろう」と思って訪れた所、お墓までの道も、墓標の周りもきれいに草がかられているのを見て、深く感動し、その時持っていたありったけを村に寄付していきました。
名前は知っていたものの、供養し続ける夫人たちがその兵隊さんの顔を知ったのは、戦後60年経った10年前のことでした。

どんな理由でこの地に墜落してしまったのか?どんな人だったのか?
それまで調べる人はおらず全く分かっていなかった中、酒井さんがとことん調べ上げた結果、初めていろんなことが分かってきたのです。
でも、なぜそんなに長い間、見ず知らずの、何のゆかりもない兵隊さんの供養を続けられたんでしょうか?
塩倉充さんに伺うと・・・

「それは、当たり前のことだと思います。」と・・・
「お国のために命を落として、憎むべきは戦争です。戦争がなければこんなことはなかった。当たり前のことをしただけです。」
見ず知らずの人をどうして?と何度も聞いている自分が恥ずかしくなる位、純粋に
「当たり前のことでしょ」
という塩倉さんの言葉に、塩倉の人々の思いやりの深さと温もりを感じずにはいられませんでした。
お墓のある場所には、今も墜落した戦闘機の破片が所々に落ちていて、

私が行ったときも、あの濃い緑の戦闘機の色をそのままに残した破片を発見しました。

なんとなく怖くて、私はそれを手にするのを躊躇してしまいました。
ここにもまだ、戦争が残っている。
そして、今もそのご婦人たちの意思を受け継ぎ、お墓を守り続けている人がいます。
酒井さん達です。

澤田さんの親族の皆さんは後に、「ここで戦死してよかったかもしれない。こんなに温かく弔ってもらって…」と仰ったんだそうです。
戦時下の信じられない軍の行いを知ると同時に、塩倉の方々の温もりを強く感じた今回の調査でした。
伝え続けなければいけない戦争の残したものを、
これからも探し続けたい 西村容子 でした。
今日は、ちょっと心が温かくなる戦争の話題を調査してきました。
住民に守られ続けているお墓・・・それはいったい誰の、どんなお墓なのでしょうか?
まずは実際そのお墓を訪ねてみることにしました。
案内をしてくださったのは、元松川町資料館の酒井幸則さんです。
酒井さんが案内してくださったのは、松川町生田の塩倉という所。
県道からちょっと入っていった所にそのお墓はありました。

これが一体、誰のお墓なのか伺ってみると・・・


昭和19年8月8日の正午頃、生田村塩倉(現在の松川町生田)の役場近くに、突如として、一機の小型戦闘機が墜落した。
その時の様子を、墜落現場、現在お墓のある場所のすぐ近くに住み、当時小6だった塩倉充(みつる)さんに伺ってみると・・・
突然「ギギ~!!!」というすごい音がして、山の中に戦闘機が落ちて行った。
その音が今でも耳に残っている・・・
と塩倉さん。
ちょうどお昼頃だったので、操縦士の兵隊さんの荷物からはおにぎりが出てきたりしたそうです。
操縦桿をにぎる手がなかなか取れず、どうにか墜落を回避しようとした姿が目に浮かんだそうです。
軍は、その墜落事故を受けていち早く現地に赴き、機体の回収をしていったそうです。

酒井さんが調べてみるとその戦闘機は、最新鋭の戦闘機だったらしく、機密情報が漏れることを恐れていち早く回収しに来たのではないかという事でした。
しかし、操縦士の遺体はその場に置き去りにされました。
後に家族は軍から遺骨を引き取りに来るように言われて、宇都宮まで行ったのですが、骨箱には石ころが少し入っているだけだったそうです。
その遺体を、塩倉の人たちは、一晩かけて荼毘に付して、埋葬。
そのお墓を、そこの婦人会の人たちが、戦後50年を過ぎても守り続けたんだそうです。
春と秋のお彼岸やお盆には、その墓の掃除をし、花と線香を供えました。
酒井さんの調査の中で、この塩倉という地域は他の下伊那の地域の中でもダントツに、戦争から生きて帰ってきた人の数が少なかったことが分かっています。
もしかしたら、その悲しみを、みんなで分け合い、その拠り所といっては変ですが、いろんな思いでこのお墓の供養を続けたのかもしれません。
その見ず知らずの兵隊さんの名前は、長崎県出身の澤田熊雄さん(享年22歳)ということが後に分かってきます。
昭和54年に37回忌の供養をかねて、遺族がお墓を訪れた際、「墓標は草木に埋まり、相当荒れ果てているんだろう」と思って訪れた所、お墓までの道も、墓標の周りもきれいに草がかられているのを見て、深く感動し、その時持っていたありったけを村に寄付していきました。
名前は知っていたものの、供養し続ける夫人たちがその兵隊さんの顔を知ったのは、戦後60年経った10年前のことでした。

どんな理由でこの地に墜落してしまったのか?どんな人だったのか?
それまで調べる人はおらず全く分かっていなかった中、酒井さんがとことん調べ上げた結果、初めていろんなことが分かってきたのです。
でも、なぜそんなに長い間、見ず知らずの、何のゆかりもない兵隊さんの供養を続けられたんでしょうか?
塩倉充さんに伺うと・・・

「それは、当たり前のことだと思います。」と・・・
「お国のために命を落として、憎むべきは戦争です。戦争がなければこんなことはなかった。当たり前のことをしただけです。」
見ず知らずの人をどうして?と何度も聞いている自分が恥ずかしくなる位、純粋に
「当たり前のことでしょ」
という塩倉さんの言葉に、塩倉の人々の思いやりの深さと温もりを感じずにはいられませんでした。
お墓のある場所には、今も墜落した戦闘機の破片が所々に落ちていて、

私が行ったときも、あの濃い緑の戦闘機の色をそのままに残した破片を発見しました。

なんとなく怖くて、私はそれを手にするのを躊躇してしまいました。
ここにもまだ、戦争が残っている。
そして、今もそのご婦人たちの意思を受け継ぎ、お墓を守り続けている人がいます。
酒井さん達です。

澤田さんの親族の皆さんは後に、「ここで戦死してよかったかもしれない。こんなに温かく弔ってもらって…」と仰ったんだそうです。
戦時下の信じられない軍の行いを知ると同時に、塩倉の方々の温もりを強く感じた今回の調査でした。
伝え続けなければいけない戦争の残したものを、
これからも探し続けたい 西村容子 でした。