南信州に春の訪れを知らせる音。
年に一度、寒いこの時期に作られる天龍舟下りの舟。
板と板をくっつけるために打ち込まれる、特殊な金具を打ち込む時の音。
音楽を奏でるような美しい響きです。
先週は、50年ぶりに復活する「つなぎ舟」を調査しましたが、今回はその続きをおとどけします。
まずは、今の舟はどのように作られているのか?
この文化と技術を、中心になって引き継ごうとしている
信南交通の天龍舟下り 船頭で、船大工の南島純さんにお話伺いました。
設計図も何もない舟作り
実は自然の木相手の為、一艘一艘形が微妙に違い、流れやすい舟や流れにくい舟もあるとか・・・
技術の進歩はあって、今は、水が入ってこないように仕上がった後
舟の側面に樹脂を塗っているんだそうです。(良くみるとピカピカしている)
そこは大きな違いで、そんなものはない当時の舟は、出港前に、
まさに舟の世話をしてから出ないと、お客さんを乗せられなかったそうです。
乾いて木と木の間に隙間ができると、それを専用の薄い木材で埋め込み補修
乗る船の補修に加えて
列車で運ばれる「つなぎ舟」
半分とはいえども、分厚い木で作られた大きな舟
一艘に大人が28人乗れるっていえばその大きさ想像できますか?
その舟を列車に乗せなくてはなりません。
今はクレーンであげてトラックに載せますが
当時はどうやって列車に乗せたのか?
想像して見てください。
当時の終点である天竜峡は、渓谷美を楽しむ場所
ということは、川までは断崖絶壁。
今でもからりの坂を下って船着き場まで行きます。
さあ!それをどうやって運んだか?
そして市田に列車で着いた舟も、駅から市田港までは歩いたら6〜7分かかる距離
田切さんによると
川からは、手巻きウィンチ(つりのリールを大きくしたみたなもの)でスロープが作られている所を引き上げる。
市田駅からは荷車に乗せて・・・
いったい何人で引っ張ってきたんでしょう?
想像するだけでもすごい作業です。
これを、1日何回も繰り返す。
当時は、市田駅から観光客の列ができたと言いますから
運行も、今より多かったかもしれませんよね
そんな田切さんの話を、ノート片手に嬉しそうに聞く南島さん。
そのノートには、今回の復活の作業の事が、事細かに書かれていました。
何ページにも渡って書かれたこのノート
初めて残される、和船の設計図(設計説明書?)になるのかもしれませんね。
50年ぶりに復活する「つなぎ舟」
2/22には完成する予定で
3月の22日に行われる川開き祭で、浸水式が行われるそうです
当時、出航ごとに行われていた、二つの船をジョイントする様子なども見られるといいですね。
田切さんが、その舟が川に浮かぶ様子をどんなお気持ちでご覧になるのか・・・
今回は文化が受け継がれていく姿を見られたとっても素敵な調査でした。
やっぱり伊那谷の文化はいいね~と思う 西村容子 でした。